ボブ・ディランのバックバンドからロックの革命児へ THE BANDの栄光と苦悩


ロックに新しい時代を呼び込んだザ・バンドではあったが、メンバーの生まれは最年長が1937年、最年少が1943年と、実はディラン(1940年)やビートルズの4人(1940~1943年)と同世代。しかもメンバー5人のうち4人はカナダ出身という辺境育ちだった。

いったい彼らはデビューするまで何をやっていたのだろうか。メンバーであるギタリストのロビー・ロバートソンの視点から描いたドキュメンタリー映画『ザ・バンド かつて僕らは兄弟だった』(10月23日から全国順次公開予定)を観ると、その謎が解ける。



ユダヤ系白人のギャングを父に、インディアン居留地で生まれ育った先住民女性を母に持つロバートソンはカナダのトロントで生まれ育った。13歳のときにロックンロールと出会い、地元のクラブでギターを弾くようになる。もちろん演奏していたのはロックンロールのカバー曲だ。

彼が15歳のとき、本場アメリカのロックンローラーのバックを務めるチャンスが舞い込んだ。深南部アーカンソー出身でジェリー・リー・ルイスやカール・パーキンスといったスターとも親交があったロニー・ホーキンスのバックである。当時のアメリカではロックンロール人気が一時的に下火になっており、ホーキンスは仕事を求めて都落ちして来たのだ。


ロックンロール歌手ロニー・ホーキンスは自身のバックバンド「ホークス」を結成し、共に活動していた。ロバートソン加入前にヘルムはホークスのドラマーとして活動していた。

このホーキンスのバックバンド「ホークス」のドラマーだったのが、ロバートソンより3歳年上のリヴォン・ヘルムだった。アーカンソー生まれのヘルムはブルースに精通しており、優れたヴォーカリストでもあった。

ヘルム以外のアーカンソー組がホームシックに襲われて脱退すると、ホークスにはトロントのシーンで活躍していたリック・ダンコ(ベース)やリチャード・マニュエル(キーボード)、ガース・ハドソン(キーボード)といった才能ある人たちが参加する。

ロバートソンと彼らはホーキンスとドラマーのヘルムから、ロックの背後にあるカントリーとブルースの何たるかを何年にも渡って叩き込まれた。次第に彼らはまるでアメリカのベテラン・ミュージシャンのようなコクがある演奏ができるようになり、ダンコとマニュエルはヴォーカリストとしても覚醒した。

もしアメリカのロックバンドだったら、ルーツミュージックの要素はもっとさりげなく漂ってくるはず。ザ・バンドのルーツミュージック色が特濃なのは、アメリカの流行から隔離されたトロントという異国の地で「研究対象」として学習されたものだからかもしれない。

ボブ・ディラン
THE BANDがバックバンドについていた頃、1965年のボブ・ディラン。この年はディランの5番目のアルバム『Bringing It All Back Home』と6番目のアルバム『Highway 61 Revisited』が発表された年だ。隣の女性はシンガーソングライターのジョーン・バエズ。

やがてホーキンスと袂を分かった彼らは成功を目指してニューヨークへと赴き、そこで白人ブルース歌手ジョン・P・ハモンドを介してボブ・ディランを紹介されたのだった。この時点でオリジナル曲を作っていたロバートソンだったが、ディランと、ツアー先で出会い結婚した女性ドミニクの影響を受けて文学的な歌詞を書くようになる。つまりザ・バンドの音楽とは、あらゆる偶然で成り立った奇跡のようなものだった。
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文=長谷川町蔵

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