業界トップの営業利益率は過去最高を記録。
しかし、富士重工は長い間、巨額の赤字を抱えて、深く沈んでいた。
末期症状を立て直したのが、吉永泰之だった。
社長室に呼び出されたとき、吉永泰之は社長の言葉の意味が掴めなかった。
2007年2月、富士重工の本社が新宿駅西口のスバルビルにあった頃のことだ。当時、吉永は戦略本部長という職にあり、翌週に発表される中期経営計画を部署でまとめ上げたばかりだった。
「吉永くん」。社長の森郁夫は声をかけると、「中期経営計画の最後にパワーポイントを2枚追加させたから」と言うのだ。社長の森と一緒に経営計画策定に取り組んできた吉永にとって、突然もってまわったような社長の口ぶりが不思議に思えた。
「なんですか? 2枚追加って」
社長は「1枚目は組織変更。2枚目は人事」と言って吉永を見ると、おもむろにこう告げた。
「吉永くん。キミが国内をやって」
――辞令だった。スバル国内営業本部長。「要するに」と、吉永が苦笑して当時を振り返る。
「100億円以上の赤字を抱え、ずっと厳しい状態にあった国内営業を担当してくれというわけです」
経済誌のみならず、朝日新聞の「天声人語」までが富士重工のどん底ぶりを危惧したのはその2年前の05年である。この年にGMが富士重工の株を売却し、提携を解消。トヨタ自動車が株を引き受け、業務提携を締結したものの、これは大きな会社に翻弄されやすい富士重工の性格を表していた。GMと資本提携を結ぶ前は、長年、日産自動車と提携関係にあった。しかし90年代末、筆頭株主として社長や役員を送り込んでいた日産からこんな言葉で離別を宣告されている。
「富士重工の将来は自分で判断して決めて下さい」
ヒット車不在、販売台数計画の未達、コスト高。自動車業界が好況に沸く05年、富士重工にとって面目丸潰れの見出しが経済誌に躍った。
〈ひとり負け〉
吉永に課せられた重責は、しかし、大逆転劇の幕開けでもあった。