感情と表情の組み合わせは勝手な思い込み
ドイツ人の心理学者アヒム・シュッツウォールとレイナー・ライゼンザインは、さきほどの状況を緻密に作り上げ、60人の被験者に体験させた。カフカの朗読が終わったあとに扉を開けたときの驚きの感情がどれほど典型的なものに近いか、60人の被験者は10点満点で自己採点した。平均は8.14点で、実際に彼らは頭の中ではびっくり仰天していた。当然、質問された被験者のほぼ全員が、自分の顔いっぱいに驚きの表情が張りついていたにちがいないと答えた。が、ちがった。
シュッツウォールとライゼンザインは部屋の片隅にビデオカメラを置き、被験者たちの表情を符号化した。眼を見開き、眉を上げ、ぽかんと口を開き、典型的な驚きの表情を作った人は全体のわずか5%だけだった。3つのうちふたつの筋肉を動かしたのは、全体の17%。残りの被験者の顔には、このような筋肉の動きの組み合わせはほとんど見られないか、少ししか見られなかった。あとはせいぜい顔をしかめる程度で、それはかならずしも驚きと関連する表情ではなかった。
「参加者はすべての条件下において、驚きに対する自分の表現能力を著しく過大評価していた」とシュッツウォールは論文に綴った。なぜか? 「驚くべき出来事が起きたときに自分が浮かべそうな表情を、感情と顔についての民族心理学的な思い込みにもとづいて推測していたからだ」。民族心理学とは、テレビドラマなどの文化的な情報源から私たちが導きだす不完全な心理学のようなものだ。
しかし、現実の生活の中でそのような展開になることはめったにない。透明性は神話にすぎない──主人公が「驚いて口をぽかんと開け」「びっくりして眼を見開く」テレビや小説の世界に染まりすぎた私たちが、勝手に作り上げた考えでしかないのだ。シュッツウォールはこう続けた。「参加者は実際に驚きを感じたため、そして驚きは特徴的な表情と関連しているため、自分もその表情を浮かべたにちがいないと考えた。ほとんどの場合、そのような推論はまちがっていた」
私が思うに、この誤り──外側と内側で起きていることが完全に一致するという思い込み──は友人同士の場合はたいした問題にはならないはずだ。誰かと親しくなるというプロセスはときに、相手の感情表現がどれほど典型例と異なるのかを理解することを意味する。しかし、見知らぬ他人に向き合うとき、私たちは直接的な経験の代わりに“固定観念“にもとづいて考える必要に迫られる。往々にして、その固定観念はまちがっている。
なぜ裁判官は間違うのか?
ここまでの議論を読めば、裁判官よりもコンピューターのほうが保釈について優れた判断を下せるのはなぜか、という謎の答えがおのずと見えてくる。
コンピューターは被告人を実際に見ることはできない。が、裁判官は見ることができる。この追加情報によって彼らはよりよい判断を下すことができるはずだ、と考えるのはいかにも論理的に思える。ニューヨーク州の裁判官のソロモンは眼のまえに立つ人物の顔を見やり、精神疾患の兆候を探すことができた。生気のない眼つき、不安定な情動、眼の奥の嫌悪……。被告人はわずか3メートル先に立っており、ソロモンは評価対象者を感覚的にとらえることができた。にもかかわらず、追加情報はほとんどなんの役にも立たなかった。驚いた人が、かならずしも驚いたように見えるとはかぎらない。精神的な問題を抱えた人が、つねに精神的な問題を抱えているように見えるわけではない。