そして提示した謎を、「会社で対面式の採用面接をする必要があるのか?」「ベビーシッターと事前に会う必要はあるのか?」などといった身近な問いに落とし込む。論争を巻き起こしそうな際どい話題にも触れられているが、それは問題提起のツールとしてあえて使われているのだろう。前述のとおり、政治思想、人種、ジェンダーなどが異なるあらゆる読者が「自分にも関係のある問題だと認識せざるをえなくなる」状況を作りだすことが作者の真の意図なのだと思う。
さきほどの『フォーブス ジャパン』のインタビューのなかでグラッドウェルはこう説明している。
「私の作品は、社会科学の学術研究と日常の経験の中間地点に位置するものだと考えている。人間の行動を説明づけるすばらしい学術研究は多いが、一般の人々には手が届きにくい。だから、そのふたつの世界のあいだに身を置き、そうした考えを噛み砕いて一般読者に届けるという仕事は、社会においてきわめて重要な役割を担っていると思う……一般の人々には豊かな経験があっても、それを体系化し、意味を解する術がほとんどない。人生の意味を理解するためのツールを提供することが私の仕事だ」
アメリカだけでなく世界中で近年、右派と左派の分断がひどく進んでいる。何か事件が起きると、必ずといっていいほど「自己責任論」と「社会の責任」という対立が起きる。保守・リベラルの伝統的な対立はどこかに消え、最近では相手を罵倒して徹底的に否定することが常套手段のようになってしまった。近頃のアメリカのノンフィクション本を読んで(訳して)いると、「抑制」「思いやり」「謙虚さ」が大切だと説くものがとても多い気がする。それらの本は共通して、分断された社会に必要なのは想像力、多様性、他者の理解だと訴える。
もちろん、日本語で出版されている本にもその傾向はみられる。たとえば、昨年発売されてベストセラーとなり、第二回Yahoo!ニュース・ノンフィクション本大賞などあらゆる賞を総なめにしたブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』でも、多様性や他者の理解が主要なテーマとして扱われている。「自分で誰かの靴を履いてみること」という素敵な表現がキーワードとして何度も出てくるのがじつに印象的な本だ。
つまりグラッドウェルは、近年の欧米社会のみならず全世界で広く話題になっている「相手を理解する」というテーマを最新作の主題に選んだといっていい。とはいえマルコム・グラッドウェルは、ひとことでわかる明確な答えを提示してくれるわけではない。訳者としては、彼はただ「もっと考えろ、思考停止に陥るな」とひたすら訴えつづけているように感じた。
この原稿を書いている五月下旬の時点では、日本での新型コロナウイルスの猛威は少しずつ収まる気配を見せつつある。この世界的騒動にまつわる混乱、ストレス、差別、批判、批判への批判、デマ、誹謗中傷、自粛警察の出現などによって、日本でも人々の分断は深まっている気がする。グラッドウェルはこの作品の中で、人とは違う視点を持ち、相手の立場を想像することが大切だと何度も訴える。
いわばポストコロナ時代への啓蒙書といってもいい本書を読むことによって、彼我の分断が少しでも和らぎ、たくさんの人が穏やかな気持ちになることを願うばかりである。オプラ・ウィンフリーの言葉を借りるなら、眼のまえの情報やニュースに惑わされず、「岩をひっくり返し、その裏に予想だにしないものが隠れている」ことをぜひ発見してみてほしい。