経済・社会

2020.06.07 20:00

人の正義を笑うな。SNSに蔓延する「冷笑主義」はなぜ危険なのか


そんなアイヒマンの発言のなかでもとりわけアレントが注目したのは、彼の徹底した法への服従姿勢であった。驚くべきことに、彼はジェノサイドを「法」を守る市民の義務として行なったと法廷で主張したのだ。

「彼のすることは全て、彼自身の判断しうるかぎりでは、法を守る市民として行なっていることだった。彼自身警察でも法廷でもくり返し言っているように、彼は自分の義務を行なった。命令に従っただけではなく、法律にも従ったのだ。アイヒマンはこれは重要な相違であるといろいろほのめかしたが、弁護側も判事もそんなことは問題にしなかった」(ハンナ・アレント『エルサレムのアイヒマン』、大久保和郎訳、みすず書房)


裁判の様子。アイヒマンはユダヤ人迫害について「大変遺憾に思う」と述べたという(Getty Images)

義務を課す法へと盲目的に服従するアイヒマンの問題点は、彼があまりにも法と正義の区別から目を背けているところにあるのではないか。アイヒマンは明らかにユダヤ人の虐殺が正義に反しているということを知っていたはずだが、それにもかかわらず、支配的立場たる多数派が制定した法にさえ従っていれば、自らの行いが正当化されるかのごとく考えていたのだ。

悪法への不服従という正義がとるべき選択肢を冷笑し、あえてナチスを支持したアイヒマンという「凡庸な男」は、自らが指揮した虐殺を「当時は仕方なかったんだ」と法が生まれた時代に責任転嫁することはできないと、アレントは論じたのであった。

ソーシャルメディア時代に必要な正義を語る「勇気」


「正義とはなにか」という問いの前で思考停止し、悪法をあえて支持したアイヒマンに決定的に欠落していたものとは一体なんなのだろうか。イマニュエル・カントが『啓蒙とはなにか』のなかで、「人間が未成年の状態にあるのは、理性がないからではなく、他人の指示を仰がないと、自分の理性を使う決意も勇気ももてないからなのだ」と論じたように、それは理性ではなく正義を支持する「勇気」だったのではないか。

古代ギリシア語には「パレーシア」という言葉がある。「率直に語ること」を指すこの言葉は、フランスの思想家ミシェル・フーコーによれば、ただ心に浮かんだことを考えなしにお喋りすることでは決してない。それはみずからを危険にさらしながらも、権力者が好まない事柄でも隠さずに、勇気をもって語ることであった。

この「パレーシア」という概念を研究する上で、フーコーが注目していたのは「シニシズム」の元祖とも言われるシノペのディオゲネスであった。ディオゲネスといえば家を捨てて樽にすみ、不用なもの全てを虚飾として身につけず生活したと伝えられている古代ギリシャの哲学者だ。

アレクサンドロス大王が「お前の希望を叶えてやる」と述べたのに対して、ディオゲネスが「あなたにそこに立たれると日陰になるからどいてください」と言い放ったというエピソードは有名だが、このように世間体を気にせず、王のような権力者に対しても怯まず吠える「犬のような(kynikos)」生活が「シニシズム」の原点にある。ディオゲネスが示したような勇気は、長い歴史の中で「シニシズム」から消えて無くなってしまったが、この言葉が本来もっていた意味は、世の権威を勇気ある態度で批判する抵抗の精神だったのだ。

シニシズムが蔓延する現代のソーシャルメディアにおいて、果たしてこのような抵抗する勇気はどれだけ良しとされているのだろうか。私たちは多数派の意見に流されるがままに思考停止し、正義や正しさへのシニシズムに陥ったアイヒマンのようにはなっていないだろうか。ディオゲネスのような「勇気」のある生き方について、今こそ考え直す時期ではないか。

文=渡邊雄介

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