磨伸映一郎『氷室の天地 Fate/school life』第12巻より引用
同作はコメディを基調とした4コマ学園漫画であり、決して政治的なメッセージ性が強い作品ではないが、主人公の氷室鐘による上記のフレーズが一種の「格言」として切り取られ、現在までにソーシャルメディアを回遊するミームの一つとなっている。確かに、悪意には罪悪感という歯止めがあるが、善意にはそれに対応するものがなかなか見当たらないということを鑑みれば、納得できる部分もある。
しかし、いざ立ち止まって考えてみれば疑問に思うことも多い。例えば、自分の主張が正義であると信じて疑わない人が仮にいたとしても、その主張を気に食わないと思う人間に嘲笑されたり、嫌がらせをされたりすることを懸念して、声をあげることすらできないということは、決して珍しいことではないからだ。そうだとすれば、「正義への信念」を「加虐のブレーキ」が壊れる直接的な要因として描くこのミームには、なにか不十分な点があると考える価値はありそうだ。
社会思想を研究する酒井隆史は、著書『暴力の哲学』のなかで「正義の暴走」を引き起こすのは理念への信仰ではないと述べ、次のように書いている。
「暴力の発動を促進させる最大の要因のひとつが、マジョリティの意識の転倒、つまり被害者意識である、ということです。すなわち、本来、力をもちまた支配的立場にあるはずの多数派の側が、わたしたちのなにか大切なものが少数派や異質なものによっておびやかされている、とみなし防衛にはしるということです。現代における暴力の問題のかなりの部分はこの『マジョリティ問題』であって、もし『正義の暴走』という呼び方をあえてするならば、多数派が多数派であるがゆえにもつこのような『正当性』意識が、それをかかげ、「敵」の攻撃に邁進するその動きに真っ先に与えられるべきでしょう」
多数派の被害妄想が「ファシズム」に繋がる
「正義の暴走」の引き金となるのは、正義への強い信念であるというよりはむしろマジョリティ意識であり、社会になんらかの不安を抱える多数派が、正義の名のもとに少数派を攻撃することを正当化してしまった場合だという。このように、多数派の正義感がいつの間にか弱いものイジメへと反転してしまう構造を、哲学が専門の藤本一勇は『批判感覚の再生』のなかで「ファシズム」の特徴として解説している。
「ファシズムはイジメ社会の極限形態という面をもつ。社会の末端で、社会の構造矛盾が人々に押しつけられ、その重たい様々な社会的な負荷のために、連帯の余裕を失って人々が分断されてしまうと、自分たちに押しつけられているしわ寄せが、どういう構造から、なぜ生じているのか、という根本原因に注意が向けられにくくなる。そのとき、強力に見える人物や言説が、レッテル貼りと観念論によって、ある特定の存在を『悪』や『敵』と指名して、あたかも一切の負の責任がそこにあるかのように先導すると、「あいつが悪いから自分たちがこんな目にあうんだ」と、被害妄想のような言説に飛びついてしまう。それがファシズムの温床となる」
彼らの議論に従えば、「正義の暴走」として第一に警戒しなければならないのは、多数派の被害妄想が招く「イジメ社会」としてのファシズムである。またそうだとするならば、「正義への信念は暴走につながるため危険である」というテーゼをやみくもに振りかざし、弱いものイジメに抗して戦う政治的主張さえも十把一絡げに嘲笑う「冷笑系」の「正義の暴走」論は疑わしいものになるのではないか。