数字はときに、世界の彩りを消し去る
──摂食障害の人は、自身の体重や体脂肪、カロリーや炭水化物の量など、「数字」にとてもこだわりますね。
磯野:私も摂食障害の当事者にインタビューしているときに「数字にとらわれているな」と感じました。そういう面は確かにあると思います。
ただ、それまで摂食障害の当事者がカロリーや体重など数字にこだわりをもつのは、よく見られる「症状」だと認識されるにとどまり、数字へのこだわり自体が分析対象にはなっていなかった。数字そのものが、いったいどういう意味を持ち、何を引き起こすのか──摂食障害研究では、この視点が見過ごされていたと言っていいと思います。
この間、『ダイエット幻想』を読んでくれたという高校生がTwitterで「7200kcalのカロリー貯金をしたい」とつぶやいていました。
食べ物を、「数字」に変換し、収支を計算する。こういう考え方が今の社会で一般的なのは、疫学データで集団の健康を分析する「予防医学」が普及し、健康も「自己管理」できる、という考えの影響が大きいと思います。
「○○を食べている人は病気になりやすい・なりにくい」「肥満の人は様々な病気になりやすい」といった情報が広まると、食べ物・食べ方そのものが健康に「いい」「悪い」と価値づけされるようになり、人々の価値観として内面化されていく。
お茶を飲むときですら「これはゼロカロリーだから“よい”飲み物だ。しかもジンジャーが入っているらしいので、これは身体にいい」とか「このオレンジジュースは、角砂糖いくつ分だから飲むと体に悪い」とか、ある種、アタマで食べ物をとらえてしまうようになる。
生きるために不可欠な営みであるはずの「食べる」という行為が、「栄養素」などの一元的な情報として扱われるようになる。場合によっては罪悪感のもとになり、その罪悪感に応えるかのように、「ギルトフリー食品」と呼ばれる、太らないおやつまで登場してくる。
数字と付き合わずに生きていくのは非現実的ですが、数字そのものが持つ力に自覚的であるということは、言い過ぎても言い足りないことはないと思います。
数字を用いた管理の視点が人々の生活に入り込むと、そこでは何が起こるのでしょう。(中略)数字の管理下に置かれたモノ/者たちは、それらがもともと埋め込まれていた文脈、すなわち具体的な世界から切り離されてしまいます。するとその影響を受けた人々の生活スタイルや考え方までもが変化することがあるのです。これが数字の持つ脱文脈化の力、言い換えると、世界の彩りを消し去る力です。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)