間違えると、「自分」が消費社会の「商品」になる
磯野:「自分らしさ」の罠を考える上で分かりやすい例が、「就活」の自己PRです。
自分を短い時間・スペースでどうPRすべきかを考えると、同世代の競争相手と自分を比べ、どこか抜きん出たところをフックのある一言でまとめたキャッチフレーズを考えざるを得なくなる。
言い換えると、自分にラベルや名札をつけ、それを他者から「価値あるもの」として認めてもらうための努力です。
だから自分探しは、「他人より自分が優れているところは?」という思考回路を導きやすい。「自分」を見ていたはずが、「他者」と比べて、頭一つ抜け出すところに「自分」を見いだしやすくなる。
でもそれは、自分の「商品化」につながると思いませんか?
「自分」の使い方を間違えると、消費社会に「自分」を「商品」として無造作に投げ込むことになってしまう。そういう落とし穴が見過ごされたまま、「自分らしさ」がやたら謳歌、称賛されているのは、見ていて危ういなと思うことがあります。
「逸脱しない私」を求め身体をイジる
──摂食障害の当事者のインタビューや調査を続けてこられました。
磯野:インタビューをまとめた本(『なぜふつうに食べられないのかー拒食と過食の文化人類学』)を書いた時には、「やせたい」という気持ちから人は逃げられるのではないかと漠然と思っていました。
でも、どんな社会にもある種の「理想体形」があって、それを参照点に人が動くのは、わたしたちが身体を持って、コミュニティで生きている限り、逃れられない運命なのだと考えるようになりました。
自己管理が称賛され肥満が治療の対象とされる社会で、痩せている体が理想なのはある意味仕方のないことではあります。でもマーケットが過剰にあおっている側面もあるということは、ある程度知っておいた方がいい。
ちょうど今日、大学で講義をしたんですが、受講していた学生からこんな話を聞きました。
SNSのストーリーに脱毛の広告がやたらと流れてくる。「元カノはすべすべだったんだけど」「20代女子からの予約殺到中」といった内容だ、と。それを聞いた学生の一人が「脱毛していない私は汚いんだろうかと思う」と話していたのが印象的でした。
この場合、「承認」を受けたいというより、「普通」から外れないように、と考えている節がある。
売る側としては、脱毛・美白・アンチエイジングをしてほしい。だから「何かが欠けていませんか」とメッセージを流します。周りも脱毛した、なんて話が実際出てきたら、受け手は「自分は平均より下なんじゃないか」「普通から外れているんじゃないか」と感じるんだと思います。
劣等感・逸脱感が作り出され、「逸脱しない自分」になるための「コンプレックス商材」が売られている。SNSなど個人にカスタマイズされたテクノロジーが発信する広告などの呼び声に無批判に取り込まれてしまうと、自分は何がしたくて、何がしたくないのかを見極めることが難しくなってしまいます。
恥じらいや性的な興奮は、自分の意思とは関係なく生まれてくるどうにもあらがえないもののように思えます。ですが、そんな気持ちの中にすら、それぞれの文化が持つ価値観が滑り込むのです。(中略)気持ちを自分だけのものだと思いすぎると、私たちをとりまく世界が、私たちの気持ちを作っているという事実に気づきにくくなり、逃げるという選択肢がみえにくくなります。(『ダイエット幻想──やせること、愛されること』より引用)