「あの時はどんな反応をされるか考えて、本当に緊張した。日本とは何のつながりもないドイツの若者が突然ビジネスの話を持ちかけても、うさん臭く思われるんじゃないかとね」
しかし、当日の面談は意外なほどスムーズに進み、その場で彼らはプロジェクトのゴーサインをもらった。二人と面談したITS三鷹卓球クラブ代表の織部幸治は54年生まれ。中学時代から荻村伊智朗の指導を受け、1983年の世界卓球選手権に日本代表として出場した。
スウェーデンの卓球クラブへの留学経験を持つ織部は語学にも堪能で、現在も海外の選手の指導を行いつつ、荻村の業績を伝える活動を行っている。
「私が青卓会(荻村伊智朗の卓球クラブ)に入門し、最初に履いた卓球シューズが、まさにシャープマンだった。荻村は卓球を通じて、世界の平和に貢献したいという話をよくしていた。ベルリンから来た二人に会って、彼の遺志を受け継いでくれる人がようやく海外からも現れたと思った」と織部は話す。
左からITS三鷹卓球クラブ代表の織部幸治、フィリップ、国際卓球連盟の事務局員としてカナダやスイスのローザンヌ事務所で19年間勤務した榎並悦子。
「その日のミーティングで、戦時中に育った荻村の歴史と、戦争で分断されたドイツから来た2人の歴史がつながった気がした。荻村が渇望した平和がこの靴で具体化できるんじゃないかと思った」(織部)
その後、荻村の卓球人生の原点となった吉祥寺の「武蔵野卓球場」の創設者の上原久枝を交えたミーティングで、フィリップらは荻村の長男の荻村一晃から正式な契約の合意をとりつけた。
「本物」にこだわりぬく姿勢
フィリップたちの熱意に心を動かされた日本人は他にも居る。シャープマンの復刻にあたり、この靴の製造のコーディネートを依頼された小川淳也と「クローザーズ」の小澤雄二だ。ビームスやユナイテッド・アローズなどのアパレル企業のOEMも手掛ける小澤は、二人の「本物にこだわる姿勢」に感銘を受けたと話す。
60年代に製造されたシャープマンの特徴の一つは、現代ではあまり用いられなくなったバルカナイズ製法と呼ばれるゴムの成形技術が採用された点だ。「19世紀に米国で生まれたこの製法は、職人の手作業でアッパーとソールとを接着させるもので、美しいスタイリングが可能になるが、非常にコストが高く、製造を受託する工場も今ではごく数社に限られている」という。
バルカナイズ製法を手掛ける靴工場は、1990年代までは神戸の長田区に多かった。しかし、1995年の阪神大震災によって靴工場の大半は廃業した。シャープマンの製造元の光洋産業が工場を構えていたのも長田区だった。