同社は1960年代に、荻村のデザインによるこのシューズを発売。70年頃には世界のプロ卓球選手の大半が愛用するシューズになっていた。しかし、80年代後半に事業を終了し、シャープマンは忘れられた存在になりつつあった。
それにしても、なぜベルリンの起業家が、日本の卓球シューズに目をつけたのだろう。「それはちょっとした偶然がきっかけだった」とフィリップは説明する。
「2014年に僕らは欧州のスポーツアパレル企業JOOLA(ヨーラ)のコンサルティングの仕事をやっていた。その当時、自分たちのブランドを立ち上げようという話になり、リサーチを進めるうちに荻村伊智朗の存在を知った。モノクロの写真で見る彼は、まるでジェームス・ディーンみたいな端正なルックスで、彼を起用すれば新しいブランドが作れるんじゃないかと考えた。"もうひとりのイチロー"が卓球界に居たことに気づいたんだ」
荻村伊智朗は、1950年代の日本卓球界の黄金期を代表する選手として活躍した後、卓球を通じた国際交流を促進。71年の世界卓球選手権名古屋大会への中国の復帰に尽力した。
その後、荻村の伝記(「ピンポンさん−荻村伊智朗伝−」城島充著)の英語版を入手したフィリップらは、彼の生い立ちやその哲学について深く知るようになり、彼の遺志を継ぐ卓球クラブが東京の三鷹に存在することを知った。
「荻村の記憶は欧州のスポーツファンの間にも根強く残っている。宮本武蔵やブルース・リーを連想させる哲学を卓球の世界に持ち込んだ荻村は、小さな体で大柄な白人選手たちを打ち負かし、まだ反日感情が残る地域の観客たちをも熱狂させた。欧州の中でもドイツは卓球が盛んな国で、オフィスに卓球台を置いているスタートアップ企業も多い。今の若い世代はニュースに関心を示さないが、荻村のブランドを通じて彼らの目を歴史に向けさせたい思いもあった」
「伝説の卓球シューズ」を復刻する
プロジェクトを始動した当初、荻村の卓球シューズを復刻するという具体的なアイデアは無かったという。しかし、リサーチを進めるうちにシャープマンの製造元の光洋産業が廃業したことを知り、二人はこの靴の復刻の検討を開始した。
「苦労したのは、この靴の情報はインターネット上にはほとんど残っていないこと。古本屋を回って昔のスポーツ雑誌を隅々まで点検しながら光洋産業の消息を探っていった」
1960年代に卓球専門誌に掲載された荻村伊智朗がデザインしたシューズ「シャープマン」の広告。世界を代表するプレイヤーの多くがこのシューズを履いていた。
ちなみにフィリップとマックスらは二人とも80年生まれで、ドイツのハイデルベルグの大学の法学部の出身。荻村のブランドを正式に復刻するのであれば、現在の権利者の許諾をとることが必須となる。その後も検討を重ねた結果、フィリップらは知り合いのつてをたどって国際卓球連盟の事務局員の榎並悦子に連絡をとりつけ、荻村の遺志を受け継ぐ卓球クラブを紹介してもらい、東京に向かうことにした。
2015年の春、10数時間のフライトを経て成田空港に降り立った二人は、時差ぼけの頭のまま電車を乗り継ぎ、JR三鷹駅から数分の場所にある「ITS三鷹卓球クラブ」に向かった。