AIには一体何が足りないのか?

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ある時代が創り出した、同時代人がどっぷりと浸かって意識していない独特の性質を、米哲学者トーマス・クーンはパラダイムと名付けたが、そうした言葉の本来の意味は時代が代わったときに初めて全体像が見えてくる。ある時代の常識は、次の時代の非常識になる。こうした論理を、最近流行っている「AI(人工知能)」という言葉に適用するのは暴論だろうか?

ここ数年は「第3次AIブーム」という言葉が市場を賑わせており、AIが理論から研究の段階を経て、やっと社会で使えるレベルになり、AIさえ使えば何でもできるという楽観説から、AIが人類の仕事を奪って支配するとするシンギュラリティーまでが入り乱れる。

しかしAIという言葉は、もともとは1956年に、研究者のジョン・マッカーシーが将来のコンピューター開発を論議するダートマス会議を企画した際に、世間の注目を浴びるような新語として作り上げたいわばマーケティング用語だ。当時は数値計算以外の、チェスを指すとか、言葉をやり取りするといった程度の気の利いた機能を指していたにすぎない。

しかし、1936年にコンピューターの基本概念を理論化し、AIの先駆者とも言われているイギリスの数学者アラン・チューリングは、最初から人間の脳の機能(知性)を脳以外の人工物で再現できないかという問題を考えていた。ゲイとして当時の法律で犯罪者扱いされたチューリングは、夭折したマーコムという友人の魂を機械の中に再現できないかと考えたに違いない。

第二次世界大戦で電子式のコンピューター「ENIAC」などが開発されたものの、多くの人は専門家が複雑な計算を行う特殊な機械としか考えていなかったが、チューリングはすでに初期のコンピューターにチェスなどのゲームやラブレター書きをさせ、人間とまともに会話できるプログラムを書こうとしていた。

当時はこれを「電子脳」や「機械的知性」などとも呼び、機械自体が子どものようにいろいろな事象を学習して新たな方法を学んでいくという構想だった。そしてタイプライターで対話したら、相手を人間と勘違いするレベルになれば、そのコンピューターは知的であるとする「チューリング・テスト」を提唱した。

「AI」という言葉自体が時代遅れ?

AIという言葉の定義は、学会の中でも何十も出され統一したものがないとされるが、平均値的に「人間の行う高度な働きを真似するコンピューターの機能」としてみたところで、人間の知能なるものが完全に解明されていない以上、AIがどれだけの知能を持っているのかは評価できない。それにAIが実現した機能はAIと呼ばれなくなり、効率化や高機能化の一環に組み入れられてしまう。マッカーシーと一緒にAIを作ったマービン・ミンスキーも、「もう知能という言葉自体が時代遅れだ」と看破する。
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文=服部 桂

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