このこと自体は非常に喜ばしいことだが、具体的な方法が見つからず困っている親も少なくない。日本人の性質か、どんな塾があるのか、どのような書籍がいいのか、などの質問を受けることが非常に多い。これまでの受験勉強の延長線上で考えている親が多いが、筆者はまずは家庭内で実践できることをまずやらせてみて、同時に知識もつければいいと考えている。今回は「まずやってみること」の重要性を伝えたい。
やらなくても語れてしまう
朝と夜の気温が下がり始め、夏が終わりに向かっていることを感じる。筆者は野球観戦が好きなのだが、プロ野球も終盤戦に入ってきた。筆者にとってはプロ野球の終盤戦も夏が終わり、秋に差し掛かる風物詩だ。
ある日、家で野球を観ていると娘が聞いてきた。「お父さんは野球やってたの?」と。おそらく、筆者がテレビで野球を観ながら、「なんで、そんな球に手を出すんだよ」などと、プロの選手を相手に文句を言っていたので、自分の父親はそれなりに野球が出来ると思ったのかもしれない。
しかし、筆者は人生で一度も野球をやったことがない。10歳くらいの頃からベイスターズファンとして、ほとんどの試合はテレビで観ているので、四半世紀近くは野球観戦をしていることになる。なので、野球のルールはもちろん理解しているし、それなりに知識はある。
ただ、実際にバッターボックスに立てば、ろくにバットにボールを当てることもできないだろうし、外野を守ってもフライが取れず、内野を守ってもエラーばかりだろう。
つまり、知識だけを先行して積み上げていっても、実践が伴わなければ、ただ机上の空論を振りかざすだけしかできなくなるのである。
日本の英語教育から学ぶ
この現象は日本の英語教育にも見られる。筆者が海外に駐在していたとき、東京の本社から同僚が出張に来た。彼が英語ができるか分からなかったが、とても優秀な大学を卒業していたのは知っていたので、「通訳はいらないよな?」と聞くと、「英語はめっきりできないので、通訳を頼む」と言ってきた。出張中、彼は一切英語を話すことはなかったが、東京に帰ってきてから彼が送っていた英語のメールは文法も単語も完璧だった。
一方で、非英語圏に駐在をしていたとき、現地語だけではなく英語もできる社員を採用した。彼は発音も文法も滅茶苦茶だったが、一切ひるむことなく積極的にコミュニケーションをとっていたため、周囲とは問題なく意思疎通をしていたが、いざメールを書かせると、全部修正をしないといけないレベルだった。
これが日本の英語教育の結果である。単語や文法だけを教え込み、会話という実践にはほとんど時間を割かないため、ネイティブから見ても問題のない文章を英語で書けるのに、会話は一切できないという不思議な現象が起きてしまうのだ。