今回、鷲尾が制作したのは、円頓寺商店街での展示「MISSING PIECE」だ。
自分自身がこの先、デザインや絵画の制作を続けていくため、自身に足りないものを探し、向き合うことで生まれたアート作品だ。それは、自分一人では探すことはできない。人と人が補って行こうと、真っ赤な人が重なっているような壁画を描いた。
「あいちトリエンナーレ2019」の展示風景。鷲尾友公《MISSING PIECE》 2019 Photo: YASUKO Okamura
今回のあいちトリエンナーレのコンセプトである「情の時代」。鷲尾は「感情や情熱」と捉え、SNSや情報の広がりが大きな時代だからこそ、「人情」にフォーカスした。
トリエンナーレのコンセプト文においても、人間の「情」への期待に触れられている。
「人間は、たとえ守りたい伝統や理念が異なっても、合理的な選択ではなくても、困難に直面している他者に対し、とっさに手を差しのべ、連帯することができる生き物である。いま人類が直面している問題の原因は『情』にあるが、それを打ち破ることができるのもまた『情』なのだ」
残念なことに、地元愛知からは今回のあいちトリエンナーレを敬遠している声も届いている。鷲尾は「美術は、今までの自分の考え方とは違う、新しい視点を発見できるきっかけをくれるもの。感受性を持って、様々な作品を鑑賞してもらえたら」と呼びかける。
今回のあいちトリエンナーレでは、音楽プログラムも実施しており、アートにあまり関心がなくても気軽に楽しめる。鷲尾の手がけた円頓寺商店街内の壁画の前にある特設ステージでは、毎週木曜から日曜日の19時から「円頓寺デイリーライブ」が開かれ、日替わりでアーティストが出演する。
環ROY(9月13日)やYeYe(9月28日)、七尾旅人(10月11日)などの出演が、公式HPで発表されている。いずれも無料で、荒天の場合は中止。ポジティブなグルーヴによって、あいちトリエンナーレで起きている「分断と逆境」を乗り越えていくことを願ってやまない。
展示中止となった「平和の少女像」と向き合うことで、私たちは何を感じ取ることができたのだろうか。作品の背景にはどんな思いがあるのだろうか。
なぜいま、政治や思想のイデオロギーの対立軸が生まれ、衝突しているのだろうか。信条が違っても、私たちは分かり合うことはできないのだろうか。
自分と異なる他者を「異物」とみなし、排除するのが現代の情報社会の世相だ、と諦めるべきなのだろうか。
最後に自戒を込めて、茨木のり子の詩「自分の感受性くらい」を引用したい。
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
(中略)
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
私もここに、いち個人として「表現の不自由展・その後」の展示会の復活を求める。