「名刺」のない暮らしが始まる
重松清著『定年ゴジラ』(講談社文庫、2001年)には、定年したばかりの男性ふたりに関する次のような描写がある。
『二人は同時に上着の内ポケットに手を差し入れた。しかし、ポケットの中にはなにも入っていない。もはや名刺を持ち歩く生活ではないのだ。二人は顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑いを浮かべた』
名刺には自分の名前の他に勤務する企業名、所属部署、役職、連絡先など、少なくとも自分を語る上で必要最小限の重要な情報が書かれている。この小さな紙片を交換することにより、互いの社会的位置関係を把握し、その後のコミュニケーションが円滑に始まるのだ。しかし、定年後はたった一枚の紙切れがなくなったことで、会話の糸口さえ見いだせなくなってしまう元企業人もいる。
著名な人の名刺の場合、名前しか書かれていないことがあるが、定年後のどれだけの企業人が名前だけの名刺で生きていくことができるだろうか。企業を離れ、地域や家庭にも居場所を見つけられないと、一体自分は「ナニモノ」なのかと不安になる。新たなアイデンティティは、会社の中ではなく地域社会の中で探すことが必要になってくるのだ。
定年後の社会的孤立
近年では、一人暮らしで誰とも話をしない「ひとり社会」が拡大し、高齢期の社会的孤立問題が深刻になっている。メンタルヘルスに関する統計では、うつ病は男性より女性に多いのだが、高齢期の健康問題を動機とする自殺者は男性の方が多い。理由は「男性には相談できる人がいない」ことが大きいという。定年後の社会的孤立を防ぐための人間関係づくりが求められる。
「ひきこもり」というと若い世代を想像する人も多いだろうが、今年3月に公表された内閣府『生活状況に関する調査』(平成30年度)からは意外な実態が見えてくる。同調査の推計では、40~64歳の中高年のひきこもりが全国で約61万人と、平成27年度調査で推計された15~39歳の約54万人を上回っているのだ。
ひきこもりの期間は5年以上が51.0%と半数を超えており、ひきこもりの長期化が窺える。ひきこもりになったきっかけ(複数回答)は、「退職」が36.2%と最も高く、就業状況との関係が深い。多くの企業退職者も定年後に居場所を失い、ひきこもりになる可能性が少なくないのだ。単身世帯が増える中で、社会的孤立状態になることが懸念される。