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2019.03.02 20:00

歴史の「もしも」を考える この考え方はとても面白い

『「もしもあの時」の社会学 歴史にifがあったなら』赤上裕幸(筑摩選書)

『「もしもあの時」の社会学 歴史にifがあったなら』赤上裕幸(筑摩選書)

人生は後悔の連続だ。もしもあの時、〇〇だったら……と思わない日はない。

夜、布団に入って、天井を見つめながらふと思う。どうしてあの時、あんなことを言ってしまったんだろう……。

そう思い始めると、もうダメだ。後悔の念が大波となって押し寄せてきて、思わず枕に顔を埋めて「バカバカバカバカ俺のバカー!!」などと叫んだりする。家族に不審な目で見られているのは知っているが、どうしようもない。

「もしもあの時……」という思考法は、実は人間に備わった習性だ。事実に反する結果を仮想することから「反実仮想」と呼ばれる。

別の選択をしていたら?

心理学では反実仮想には「上向き」と「下向き」があるとする。このふたつをわかりやすく観察できるのがオリンピックだ。

表彰台で悔し涙を流すのはきまって銀メダリストで、銅メダリストは案外ホッとした表情を見せている。「もうちょっとで金メダルがとれたのに……」と悔しがる銀メダリストの思考は「上向きの反実仮想」。一方、銅メダリストは「もしかしたらメダルをとれなかったかもしれない」と「下向きの反実仮想」で安堵する。

『「もしもあの時」の社会学 歴史にifがあったなら』赤上裕幸(筑摩選書)は、反実仮想の可能性について論じた一冊。思いも寄らない指摘の数々に目を開かされること請け合いだ。

「あの時、別の選択をしていたら、今とは違った人生があり得たかもしれない」

誰しもそんな想像をしたことがあるだろう。世の中には反実仮想をモチーフにした作品が数多くあるが、本書はその中の傑作として、フランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生!』(1946年)を挙げる。人生を悲観したジョージが川に身を投げようとすると、守護天使のクレランスが姿を現す。クレランスは自殺を思い止まらせるために、「もしもジョージがこの世に生まれていなかったら」という別の世界の姿をみせる。

ジョージのいない世界では、家族や友人は不幸な生活を送っていた。弟は9歳で溺死しており(現実世界ではジョージが溺れる弟を救っていた)、妻はジョージと出会わなかったために生涯独身で、叔父と一緒に経営していた会社は倒産、仕事で手がけた分譲住宅地も墓場になっていた。

守護天使クレランスが見せたのはいわば「下向きの反実仮想」の世界だ。今よりもずっとひどい世界を見ることでジョージは、大切なのは現実と向き合い、「今」を懸命に生きることだと気づくのである。

第一次世界大戦の「もしも」

「もしも」は、歴史ではお馴染みだ。

これが「クレオパトラの鼻」などであれば単なる与太話ですむのだが、中には痛恨の「もしも」もある。たとえば1914年6月28日のサラエボを見てみよう。

この日、オーストリア・ハンガリー二重帝国のフランツ・フェルディナント大公夫妻がサラエボを訪問した。ところが駅から市庁舎へと向かう夫妻の乗ったオープンカーに向かって、大公暗殺を狙うグループのひとりが爆弾を投げた。夫妻は無事だったが随行の者が負傷、犯人はその場で毒を飲んで川に身を投げたものの、毒は効かず、川は浅すぎてすぐに捕まってしまう。それを見ていたグループの他のメンバーは、計画していた次の犯行を諦めてしまう。

テロが起こったのだからスケジュールは白紙にして、どこか安全な場所に身を置くのが普通だが、大公は突然、病院に負傷者を見舞いに行くと言いだした。しかもこの行先の変更を、どうしたことか誰も運転手に伝えていなかった。

途中で道が違うことを知らされた運転手は、曲がり角で停止。ここにたまたま居合わせたのが先ほど犯行を諦めたグループのひとりだった。意を決した男は銃弾二発を放った。一発は大公に命中し、それたもう一発が大公妃に当たった。ふたりは息絶えた。
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文=首藤淳哉

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