たとえば、ニューヨークである洗剤を売ろうとしているメーカーがあったとする。「安くて長持ち」が売りの洗剤だが、手には優しくないし、パッケージも地味で香りもよくない。さて、この洗剤は「誰」へ、「どこ」で、「何語」で売られるのか?
主要なターゲットは低所得者層だろう。経済的に余裕があれば自動食洗機用洗剤とか、値段は多少高くても手に優しくていい香りの洗剤を買う。でも、そうではないこの洗剤は、「安さ」を優先する人たちへ訴求しなければならない。ハーレムやチャイナタウンで、スペイン語や中国語を交えて広告されるのではないか?
いままでなら、マーケティング担当者はこの広告戦略について、「そのエリアの売り上げが高かったので、多く出荷しています。調べてみたらスペイン語比率も高かったのでスペイン語で屋外広告を打ちました。効果はあったと思います」と言えばよかった。つまり、NYにおける低所得とスペイン語はなんとなく別々な話でよかった。
しかし、いまは違うのだ。「この商品のターゲットはヒスパニックでスペイン語を話す人たちです。そういう人は低所得者層です」。これが現在のマーケティングする側の「真実」なのだ。
つまり、ターゲットの個別具体のデータを安易にコネクトして、そのターゲットに向けて広告をすることは、文脈によっては、企業が「私たちは差別をしています」と大声で言うことに近しくなっているといえる。
同じことは、日本でも起きている。売る側が消費者側から個人データを収集して、それを基にマーケティングする。つまり、洗剤を売るなら、行動データで家事が好きそうな人だけをターゲットに絞ることで、広告の無駄をはぶき、訴求力も高めていく。
すると、「家事が好きな人のボリュームゾーンは専業主婦だったので、専業主婦に特化した表現で訴求しました」となる。でも「専業主婦だけが家事をするような表現」は差別できでもあるわけだ。
いままでは、「本当は私が低所得者だからこの広告がここにあるのだろう」とか、「もしかしてこの病気の人がこの商品買うこと多いのか?」となんとなくぼやっとしていたことが、ビッグデータとAIにより、「そうです、低所得者だからです」「はい、あなたがこの病気だからです」と言われてしまう時代になったのだ。