その神話は、イタリア北西部ピエモンテ州、アレッサンドリアで始まった。貧しい家庭に生まれたジュゼッペ・ボルサリーノという青年が、パリでの修行で帽子職人の資格を得たのち、1857年、弟ラッザロともに靴屋を創業したのだ。
後にイタリアモード界を象徴するブランドとなる「ボルサリーノ」の誕生である。この時は100年後、ハリウッドでスポットライトを浴び、銀幕を飾るようになる帽子の物語の始まりとは、誰も予測しなかった。
ロバート・レッドフォードもフェリーニの名画「8 1/2」を見て工場まで来た
そして、会議やパーティー、イベントにあらゆる人がボリサリーノをかぶる時代がやってきた。街を歩いても、ボリサリーノ・ハットが鎮座していない頭はないほどだった。
1900年代初頭には、ボルサリーノは1日あたり約2500の帽子を生産し、300人の職人を擁していた。オックスフォード辞典にも「つば広のフェルト帽の一般名称」として項目入りを果たした。映画では登場人物の社会的地位を象徴し、数々の名シーンで印象的な役割を担った。
好況下の1920年代、主にフェドーラというつば広のモデルで認知されていたボルサリーノ・ハットは、高級ブティックのショーウィンドウを飾り、アメリカンマフィアのドン、アル・カポネに愛され、 1942年の映画『カサブランカ』でハンフリー・ボガートの物憂げなオーラの演出に一役買い、1970年には、アラン・ドロンとジャン=ポール・ベルモンドがギャングスターを演じるジャック・ドレー監督の映画のタイトルにもなった。
数多いボルサリーノの神話は、俳優ロバート・レッドフォードに関してもある。彼は、フェリーニの傑作「8 1/2」を観てボルサリーノの「フェドーラモデルの黒」に惚れこんだ。そしてこのモデルを手に入れるため、ハリウッドからイタリア、アレッサンドリアの工場までわざわざ足を運んだというのだ。
車社会による凋落、そして━━
ところが1970〜80年代、状況は変わり始める。車社会の到来によって、人々が帽子をかぶらなくなったのだ。ボルサリーノは職人の数を半分にし、年間生産数も1500に縮小した。会社の状況も大きく変わり、90年代、会社はミラノの実業家グループに譲渡された。
そして2013年、ついに経営破綻。ボルサリーノにとっての暗黒期の幕開けである。
しかし2015年、起死回生のチャンスが訪れた。個人資産投資会社ヒエレス・エクイータ社代表、イタリア系スイス人のフィリップ・カンペーリオが1千万ユーロ(約14億2000万円)超を投資、2018年7月には正式に競売で落札したのだ。
フィリップ・カンペーリオはこう言う。
「3年にわたる激動期間を経て、今やっと少し落ち着いてきました。ボルサリーノは小企業ですが、その計り知れないバリューやブランド力は世界に十分認知されています。そして近年、取引量も顕著な成長を見せ始めました。
私がボルサリーノに関心をもったきっかけは本能的なもので、デューディリジェンス(投資対象となる企業の価値やリスク)にはあまり注意を払いませんでした。この企業が長年、間違った経営体制の下に置かれ、機能不全に陥ったむしろ被害者なんだと気づいたのは、投資を決めた後でした」
メゾンの商品の一部(Shutterstock.com)
カンペーリオはボルサリーノの今後に、明確な目的を掲げる。
「軸はイノベーション、そして会計的には資本化です。帽子はベルトや靴、バッグ、スカーフを超えるファッション・アイテム。スタイル、色、素材、そして形状がとりわけ重要です」