いま、私はドーハに向かう飛行機のなかでこの文章を書いている。10日前に始まったウガンダでの難民取材の旅。ルワンダを経由し、ドーハ、そして日本を目指す暗い機内でパソコンに向かうと、ウガンダでの記憶がフラッシュバックのように蘇る。
シャワーから出る薄い赤茶色の水。泥と錆の臭いが混じった茶色い水を浴び、泥臭くなる身体。マラリア予防として飲んでいた薬の副作用で悩まされた悪夢。日本人がマラリアに感染し死亡したばかりで、服用は必須だった。そして、一人の少女の言葉が胸に突き刺さる。16歳のヘレン(仮名)は私にこう言った。「難民居住区に来てからもつらい日が続く、いいことはない、夢なんかない」
──なぜ難民の取材をするのか? こうした悲惨な少女の声は世界中で途切れることなく報道されているし、私自身、この3月まで働いていたNHKで、何度も難民という言葉をニュースで読み上げた。でも、正直に告白すると、肌感覚で言えば、難民は遠い存在だった。
私が気になったのは子どもたちのことだ。子どもたちは、ある日突然、生きていく「場所」を奪われ、その日を境に「難民」と呼ばれることになる。そんな子どもたちは、未来を描くことができるのだろうか。平和が続く日本にいて想像力に欠ける私のような鈍なタイプには、想像が難しい。日々、ニュースを読み上げる私が、知らない世界を知っているかのごとく読むことに違和感を抱き続けた。「足を運び、この目でこの耳で感じるしかない」と思い立ったのはそんな理由からだった。
ウガンダの南スーダン難民居住区
私が向かったウガンダは、100万人以上の難民を隣国の南スーダンから受け入れている。南スーダンは、今世界でもっとも深刻な難民問題が起きている国の一つだ。UNHCRによると246万人以上が内戦のために国外に逃れている。
羽田を飛び立ったのは10日前の深夜0時1分。中東カタールを経由し19時間かけて、ウガンダのエンテベ空港に到着。首都カンパラで一泊し、赤茶色のシャワーの洗礼を受けた後、南スーダンと国境を接する北部に向かった。車は悪路にタイヤがはまる度に大きく上下する。10時間後にたどり着いたのは国境近くのアルア県だ。およそ25万人が難民居住区に居む。
ウガンダの難民居住区は、簡易テントにぎっしり押し詰められた難民キャンプのイメージとは違った。門の前には難民登録を待つ人々が並ぶ。そこを過ぎると家々が村のように点在する。