ファッションブランド「JW アンダーソン(JW ANDERSON)」が主催するフォト・アワード「ユア・ピクチャー/アワ・フューチャー」に、唯一の日本人として選出された写真家・小見山峻。ジャンルに囚われることなく、ストリートから日本画までさまざまなルーツを感じさせる独自の写真表現を追求している。
2018年11月、彼は自身初の写真集「hemoglobin」を完全自費出版した。収録された写真に人間は一切写っていない。彼が数年間をかけて撮影してきたのは「二種類の鉄」であり、112ページに及ぶ写真の連なりは、自身のルーツ、芸術への意志、媚びない信念を表明している。誰にも似ていない孤高の写真家が歩んできた過去と、見据える未来についてのインタビュー。
楽しませるために作られたものを楽しいと感じるのは、当たり前のこと
──この記事が出る頃は、誕生日を迎えていますね。
写真集が完成したから、また歳を一つ重ねられるな、という気がしています。モヤモヤする感覚は残っているけれど。
──どういう感覚ですか?
良くも悪くも、ありとあらゆることに対してモヤモヤしますね。けれど、それはとても大事なことで。靄が全て晴れたら生きていけないと思います。
──それは、表現をする人ならではの感覚なのかもしれません。
全てにおいて納得いくようになったら、生きている意味ってなくなりませんか?クリエーションに限らず、何かを克服すること、超えることって一番の快感だと思うんですよね。スポーツが上達するとか、ピアノが弾けるようになるとか、ダイエットで痩せることだって。それもひとつの生産であり表現なのかなと。
──生産し続けたい、と考えているんですね。
以前、どこかで目にした「何かを消費する楽しさは、何かを生産する楽しさには絶対敵わない」という言葉が記憶に残っています。ゲーム、漫画、音楽、アトラクション。大衆娯楽は、受け手が消費するためにできています。楽しませるために作られたものを受け取って楽しいと感じるのは、当たり前のことだよなって。本当の楽しさは、生み出す側にあるはずなんです。
──それは、写真に向き合う中で研ぎ澄まされていった感覚なのでしょうか。
学生時代から感じていたことでもありますね。少し話は変わりますが、自分自身が楽しんで、それが波及していくのが一番健全だと思っています。写真に対する姿勢もそう。誰かのために撮るという感覚になったことはありません。まずは自分のために。そうでないと出しきれないので。
──自分が絶対的に好きであるものを突き詰めると、結果的に一定数以上の母集団に響く、という話がありますね。
そうですね。自分と近しい感覚を持っている人は好きだって思ってくれるはずだから、それで誰にも届かないなら、もう仕方がないな、という気持ちでやっています。