萬田:彼と出会ったのは80年代半ば。「香港で成功した人」くらいにしか知りませんでした。それが付き合い始めていろんな国に一緒に行くようになったら、道行く人から「やあ、リッキー」とか「この前は、ありがとう」とか声をかけられるんです。「この人、何者?」って。
例えば香港に行くと香港英語を話し、イタリアに行くと、イタリア人のような英語を操る。かっこいい人を見ると、真似をして吸収して、それを楽しんでいる。おかしかったのは、西城秀樹さんと知り合ったら「傷だらけのローラ」を歌うようになって。だんだんと上手くなっていくんです。
国内外、どこに行ってもそんな調子だから、お年寄りから若い人まで、嫌味なく付き合っていましたね。
同居していた私の母とリッキーは仲が良くて、母は「今日は力さんが帰ってくるから」と口紅を塗るんです。古舘伊知郎さんが、「リッキーさんは女たらしでも男たらしでもない」と言ったことがあります。「その心は─人たらしだよ」って。
子どもの頃からお兄さんとともに学校ではスターだったようです。お兄さんが生徒会長、彼が副会長を務め、運動会では花形。岐阜の出身で、お父様は国鉄勤めでした。とても堅実なご家族だったと思います。ご両親とも素敵な方でした。
男同士の強い縁
彼は「滝さんのためなら死ねる」とよく言っていました。大学卒業後に就職した繊維商社「タキヒヨー」の滝富夫さん(現・名誉顧問)を父親のように慕っていたんです。滝さんも息子のように可愛がってくださいました。
20代で独立するとき、彼は滝さんからお金を借りています。でも「滝さんとの縁を切りたくないからお金は返さない」と言っていました。滝さんと柳井さんの名前は、ジェラシーを感じるほど頻繁に口にしていました。私には入りこめない男同士の強い縁。そう感じたのです。
51年、岐阜県に生まれた佐々木力は、72年に神奈川大学を卒業し、老舗の繊維商社タキヒヨーに入社した。当時、社長だった滝富夫は26歳で社長に就任後、アメリカに進出し、「ダナ キャラン」を発掘し、トップブランドに育てた人物だ。日本企業が、欧米のデザイナーを支援して世界ブランドに育てる成功モデルを、滝は築いた。佐々木は入社1年半後にニューヨーク駐在員となり、滝のもとでグローバルビジネスを学んでいる。
77年、佐々木は26歳で香港のタキトレーディング支店長に就任。アメリカからやってくる大物バイヤーやセレブが集まるペニンシュラホテルのロビーを拠点に商談を行い、ビジネスと人脈を広げた。「トミーヒルフィガー」や「マイケル・コース」を買収した投資家サイラス・チョウ、「トイザらス」の買収で知られ、製造から小売りまで行う「リー&フォン」のフォン・ブラザーズなど、名士との交流を広げた。
さらに「ワールド」の出資でワールド香港をつくり、32歳で取締役に就任。また、「イッセイ ミヤケ」などアパレル事業を幅広く展開しながら、「カルチャークラブ」というライブステージが併設された大型レストランを経営。当時、世界的スターだったボーイ・ジョージ率いるカルチャークラブが来たこともあった。「社交場」をつくって人をつなげるやり方で、隆盛を極めたのだ。
90年、ファッション界のアカデミー賞といわれるCFDA(全米ファッション協議会)アワードで、佐々木が手がけたブランド「アレクイーン」がペリー・エリス賞を受賞。デザイナーのゴードン・ヘンダーソンは授賞式で、「この賞をリッキー佐々木に捧げる」とコメントし、佐々木を喜ばせた。
絶好調の一方で、事業の拡大で、在庫管理に目が届かなくなっていた。