すでにリーダーとして忙しく働くこうした人たちにとって、リーダーシップ開発をさらに深めることは、スプーンの使い方について1年間のコースを受講したり、デュアル・モード・ビークル(DMV)の運転マニュアルを毎晩読まされたりすることと同じだ。そんなもの、誰が必要だろうか?
何十億ドルもの市場を形成するリーダーシップ開発業界は、その営利行為を正当化する上で、この業界の崇高な介入なしでは地球からリーダーが消えてしまう、と言わんばかりに振舞うことが多い。しかしどの社会にも、幼少の頃から能力を発揮する天性のリーダーがいる。
4歳のエルは、こうした生まれつきのリーダーだ。彼女は、マニラ郊外に住む私の親しい友人の娘だ。数年ぶりに再会すべく、最近友人を訪ねた私は、現代のさまざまなリーダーシップ研究から得られるよりも多くのことをエルから学んだ。
エルは、同年代の子どもたちに自信を持って指図し、指導する才能を持っている。自分より年上の人に対しても同様だ。
「ロビーおじさん、今からジェンガで遊ぼう」
「お父さん、お母さん、今すぐここに来て」
「ロビーおじさん、口に食べ物を入れたまま話しちゃだめ。失礼だし、のどを詰まらせるかもしれないよ」
エルは、企業理念や戦略計画、どうでも良い「ビジョンのようなもの」を通して指導しているのではない。言葉や行動を通し、ただ「私の言うことを聞いて」と訴え、存在感を示すことで人を導いているのだ。
また彼女は、トップの指導者に必要な魅力や、営業精神まで身につけていた。マニラの午後のうだるような暑さの中、疲れて歩きたくないとき、彼女は「抱っこしたければ、してくれてもいいよ」などとかわいらしく言うのだ。こんな非強制的なお願いを拒否できる人などいるだろうか?
4歳の彼女は、多くの人がリーダーシップを実践できず、学習者にとどまってしまう原因となる自意識や慎重さ、不安を持っていない。
博物館に行ったとき、エルはフィリピンの偉人の像の足元に置かれた盾(生い立ちを記したもの)を指差し「なんて書いてあるか知ってる?『禁煙』だって!」と口にした。そしてさりげなく次の展示物へと移動し、皮肉的でこっけいで、自信に満ちた分析を心に浮かぶまま述べていた。この自信は、彼女の人生を通して役に立つだろう。
『マタイによる福音書』には、次のような一節がある。「イエスが語り終えると、民衆は感銘を受けた。イエスが他の専門家や指導者のようにではなく、権威のある人物のように話したからだ」