酒づくりは米づくり 泉橋酒造はなぜ「栽培醸造蔵」を目指すのか?

熟練の職人の手作業による麹造り

神奈川県海老名市にある泉橋酒造を、ミシュラン2つ星の有名フランス料理店のシェフ・ソムリエが訪れた。泉橋酒造では、酒蔵をすべて公開しており、海外からの見学客も受け入れている。シェフ・ソムリエは、その土地で生まれた米を使い、伝統的な醸造法で醸す日本の酒を目の当たりにして、「土地のテロワールを表現した日本酒だ」と絶賛した。

お米を櫂(かい)で潰す山卸という手間のかかる工程を経てゆっくり発酵させ、より複雑な味わいを引き出す「生酛づくり」。泉橋酒造の6代目、橋場友一は、自らが日本酒づくりに携わろうとしたとき、このつくり方を選んだ。シェフ・ソムリエは、こうも言葉を継いだ。「本来、店には日本酒は置いていないが、この日本酒は店に置きたい」と。そして、店との取引は、去年から始まっている。

アイデンティティを持った酒

泉橋酒造の6代目である橋場友一は、華やかな青春を謳歌したバブル世代だ。造り酒屋に生まれた彼は、蔵を継ぐのは、長男として生まれた自分の宿命だとはわかっていた。しかし、バブル絶頂期の時代、橋場の言葉を借りれば、「日本酒づくりは、いまと違い、斜陽産業と思われていた」のだという。橋場も、そのまま蔵に入るのではなく、外の世界を見たいという思いで最大手の証券会社に就職。営業職として充実した毎日を送っていた。

蔵に入るきっかけとなったのは、小型の酒販店の出店が自由化されるなど、酒販免許の規制緩和が徐々に進み、業界全体が変革の時期に来ていたことが大きい。泉橋酒造は1857年、江戸時代に創業された歴史ある蔵だが、時代の波は押し寄せており、伝統だけでは生き残ってはいけない状況であった。

「新しい泉橋酒造をつくってほしい」、長年、蔵を守り続けてきた両親の思いも橋場は痛切に感じていた。1995年1月、阪神淡路大震災が起きた。橋場は、「いつかではなく、自分が本当にやるべきことを、いまやらなくては」と決意して、3月いっぱいで勤めていた会社を辞め、実家の家業に就いた。

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得意先を毎日のように回る活動的な証券会社での仕事と違い、蔵でひたすら酒づくりと向き合う日々が始まった。橋場の葛藤は小さくなかった。そんな橋場を支えたのは、変革の荒波の中でも蔵を守り抜きたいという思いと、祖父や父がつくり続けてきた、日本酒づくりへのプライドだった。

「国酒」と呼ばれ、焼酎とともに日本の国を代表する酒として、国賓を招待する場でも提供される、そんな国を代表する酒であり、日本の食文化の華のような存在だ。それを、自分が受け継ぎ、つくっていく。橋場はそこで考えた。新しい時代に生き残れる日本酒とは、そして、自分たちの蔵、泉橋酒造らしい日本酒とは何なのかを。

清酒、特に純米酒に許されているのは、米、米麹、水という3つの材料だけだ。

しかし、主原料である日本の米の将来はだいじょうぶなのか。泉橋酒造の蔵がある海老名市は、2千年前の米づくりの遺跡が発掘されるなど米づくりの歴史を誇る地域だが、東京のベッドタウンとしての開発が進むにつれて、サラリーマンとして働くことを選ぶ農家の後継ぎたちが増加。農業に携わる人たちの高齢化が進んでいた。耕作地放棄のニュースなどを目にするにつけ、「他人事ではない」という不安が募った。

そんな状況のなかで、橋場が考えてたどり着いたのが、「地元の米で、生酛造りを中心とした伝統製法での酒づくりをする」という答えだった。生酛造りとは、醸造過程で、通常は速醸系と呼ばれる乳酸を足すところを、それをせずに、時間をかけて米と米麹からじっくりと乳酸菌が生まれるのを待つ方法だ。

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もちろん、自然に任せる部分が大きいので、つくり手の技術が問われ、手間もかかる。失敗すれば、1回分の仕込みが丸々無駄になったりする。リスクの高い製法だ。しかし、生酛だからこそ出せる味があり、蔵に棲みついている微生物の力を借りる、それが本来あるべき「この土地の酒」ではないか。それをとことん追求しようと橋場は心に決めた。
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文・写真=仲山今日子

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