実際、橋場家では戦前までは自分の田でつくった米で酒を醸造しており、それは代々行ってきた酒づくりのスタイルでもあった。ただ、戦後の食糧管理法の統制のため、このところそれができなくなっていたという経緯もあった。
運も橋場に味方した。泉橋酒造では1973年から、先代である父の手で、すでに100%米でつくる酒、純米酒づくりは始まっていたが、橋場が酒づくりを始めた1995年から食糧管理法が改正され、自分たちでつくった米で日本酒を醸造できることになったのだ。
橋場は、「泉橋のアイデンティティを持った酒」をつくろうと、さっそく翌96年から元々所有していた水田で酒米づくりを始めた。自らの水田で米づくりから行う、栽培醸造蔵を目指したのだ。日本酒の醸造は冬に行われるから、春から秋にかけての閑散期を、稲作に当てると、ちょうどいい。それが本来の酒づくりだったのだから、当然、かつ自然なことだ。
田植えと稲刈りのイベントを
しかし、理想を現実に移すのは、想像以上に大変だった。自社で最初に育て始めたのは酒米の代表格、山田錦だったが、米としては新しい品種に入る山田錦は、神奈川県での栽培実績がなく、試行錯誤の連続だった。
さらに、酒蔵が米づくりから一貫生産を行うというのは、当時全く新しい取り組みのうえ、酒どころとしても、米どころとしても知られていない神奈川県の蔵のため、つくってもつくっても良さが伝わらず、まったく売れない。「こだわってつくっても、知名度のある大手の蔵にはやはりかなわないのか」と悔しい思いを橋場は何度も噛み締めた。
もちろん、純米酒をつくるのは、費用の面でも大きな負担があった。アルコールを添加するなら、サトウキビなどからできた醸造用アルコールを外から購入すれば良いが、純米酒は自分たちですべての酒を醸さなくてはならない。設備を大幅に増やし、より良い品質を追求するため、原料米は安価な飯米から、高価な酒造好適米に変更した。
秒単位で時間を測りながら、人の手で洗米する
新たな投資分をまかなうために、酒販店へのリベートをなくした。長年世話になった恩義があるのは、身にしみて感じていたが、他に手段がない。苦渋の決断だった。なかには、そのために泉橋酒造の酒の販売を打ち切る酒販店もあった。さらには赤ワインと焼酎のブームも追い打ちをかけた。コストがかさむばかりで、売り上げが思うようについてこない日々が続いた。
それでも「故郷の風土を表現する、米の味がする日本酒をつくりたい」と、苦しかった時期をその一心で乗り切った。「フランスのワインのつくり手だって、当たり前のようにぶどうからワインをつくっている。世界で通用する醸造酒の基準はそこにあるはずだし、自分にだってできるはずだ」と考え、くじけそうになる度に、そう、自分を励ました。そんな苦しい時期が5年ほど続いたが、やめようとは一度も思わなかった。
もちろんその間も、ただ手をこまねいていたわけではない。知名度のなさを、逆手に取った。知られていないのなら、都心からのアクセスの良さを利用して、来て、楽しみながら知ってもらえばいい。実際に田を見てもらい、蔵のファンになってもらえばいい。逆転の発想で、お客さんを呼び、田植えと稲刈りのイベントを始めた。このイベントがきっかけで、泉橋の日本酒を置いてくれるようになった店も少なくない。いまでは、22年間続く泉橋酒造の名物イベントだ。
大きく風向きが変わってきたのは、2003年のことだ。酒販免許の取得に規制がなくなり、酒販店だけではなく、コンビニエンスストアやスーパーマーケット、ディスカウントストアなどでも酒が売れるようになった。価格競争で太刀打ちできなくなった従来の酒販店は、専門知識と高品質の品揃えを持つ、地酒やワインなどに特化した専門店への転身を迫られたのだ。そうした専門店が、「ここでしかつくれない、地元の米からつくった地元の日本酒」である泉橋酒造を評価し始め、それらプロの口コミから、販売先は百貨店などにも広がっていった。