愚直な忠臣であり続けた男
だが金永南氏に関する証言を参照すると、彼が生き残れた最大の理由は、むしろ彼個人の性格とそれに基づく処世術の方が大きいようだ。
そのことをもっとも端的に表しているのが、元ワシントンポスト紙記者であるドナルド・オーバードーファー氏の著書「TWO KOREA」内の一文だ。そこには金永南氏の元部下で1991年に韓国に亡命した駐コンゴ北朝鮮大使館一等書記官の高英煥氏による金永南評が紹介されている。
「もし金日成が壁を指差し、そこにドアがあると言えば、金永南はそれを信じ、通り抜けようとするだろう」
また、「TWO KOREA」内では、韓国との国交樹立間近だった旧ソ連のエドゥアルド・シュワルナゼ外相との協議の際、時には同行した側近が差し出した紙をそのまま読み上げるかたちで北朝鮮の立場を説明する愚直な金永南氏の様子が描写されている。
実は金永南氏の人物評については、私自身も偶然出会った北朝鮮駐在経験を有するヨーロッパ某国の外交官に聞いたことがある。北朝鮮のことについて水を向けたとき、彼が問わず語りで「公式の席で金永南氏と会ったことがある」と口にしたので、その印象を尋ねたのだ。彼は次のように言うなり、噴き出すように笑い出した。
「Maybe he is wise, but just elderly man(賢いかもしれないが、ただの老人だね)」
外交官という実務家の彼にとって、「お飾り」に過ぎないということなのだろう。
彼の言った「賢さ」は、「気配り」とも解釈できそうだ。その一端は今回の訪韓でも垣間見えた。一行が韓国の仁川国際空港に到着後に貴賓室に案内された際、主賓席への着席を勧められた金永南氏は後ろから来た金与正氏に主賓席を譲るしぐさを見せている。
北朝鮮の公式行事の際に発表される参加幹部名簿などを軸に推定されている国内序列で金永南氏は2位、金与正氏は25位前後。しかも訪韓団代表で国家元首格なのだから本来なら金永南氏が主賓席に座るのは問題はないはずだが、彼はそれを良しとはしなかった。
トップに忠実で気配りのあるメッセンジャー。数多を人を束ねるトップ、とりわけ独裁者にとってこれほど都合の良い人物はいないだろう。北朝鮮にも似た硬直した同族企業で生き延びるしか術がない企業人にとって見本のような人物がまさに金永南氏なのである。ただその反面、変革期の旗手には向かないともいえる。
拉致問題解決に必要なこと
金一族の忠実な僕(しもべ)である金永南氏は、韓国の文大統領主催のレセプションの後半、安倍首相が自ら近づいて伝えたメッセージを、確実に金正恩氏に伝えるに違いない。だが、粛清を生き残ってきた彼だからこそ、オウム返しに安倍首相の言葉を伝えこそすれ、この件で金正恩氏に何らかの意見を具申することはほぼないだろう。辛辣な言い方をすれば、安倍首相は「どうでもいい人」に日本のメッセージを伝えたのである。
もちろん「表玄関」たる金永南氏にメッセージを伝えることには一定の意味はある。ただ、人治国家・北朝鮮との問題解決を現実に近づけるためには次の一手が必要である。具体例を挙げれば、小泉首相時代の日朝首脳会談は「ミスターX」と称された北朝鮮最高指導部直結の人物を通じた事前秘密交渉により実現に至った。拉致問題解決には金正恩氏に具体的な意見が具申できる「裏玄関」となる人物の確保こそが真の第一歩なのだ。