日本の高等教育は「無償化」に値するか

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日本の教育改革の一環として、「高等教育を無償化」が議論される背景にはどのような根拠があるのか? 前回の記事では高等教育のファイナンスに詳しいスタンフォード大学マーティン・カーノイ教授とともに、大学の授業料設定のあり方について考えたが、今回は国内大学への世界的評価も踏まえ、筆者の考えを論じたい。

そもそも、今なぜ高等教育無償化か
 
高等教育無償化の論理的根拠としては、以下3つの議論がよく展開されている(これとは別に政治的意図もあることは明白だが、ここでは触れないでおく)。

1. 経済格差が教育格差につながることを防がねばならない
2. 対GDP比で見た日本の高等教育に対する公財政支出が、OECD諸国の平均を下回っている
3. 高等教育を受けた人と受けていない人の生涯賃金を比べると、両者の差は高等教育のコストより低いため、国として高等教育へ投資する意義がある(いわゆる人的資本論)
 
まず1の教育格差については、大変重要な社会課題であると認識しているが、前回考察した通り、必ずしも一律無償化が解決策になるとは言い難い。特に日本のように国家財政が逼迫している状況では、大学の授業料値上げと奨学金制度の充実を同時に実施する、あるいは卒業後の賃金に応じて返済する無利子貸与制にするなど、複数の選択肢があるように見える。
 
2については、急速に少子化が進み全人口に占める若者の割合が著しく減少している日本において、対GDP比を他国と単純に比較することにあまり意味があるとは思えない。絶対的な金額で見ても、日本の高等教育機関に対する在学者1人当たり年間公財政支出は6855ドルに対し、同OECD平均は9719ドルと低いことは確かだが、これも家計の平均可処分所得などと照らし合わせて分析される必要があるのではないだろうか。

また、複数の学術論文で、購買力平価(PPP)調整が行われていない点も指摘されている。加えて、日本の大学奨学金には貸与型が多いことが知られているが、OECDの統計の中でこれらが(給付型ではないため)公財政支出と見なされていない可能性もある。
 
最後に3について。1960年代から70年代年前後の「人的資本論」黎明期には追加的教育が経済にもたらす価値についてが国家全体で計算されることも多かったが、昨今は分野や大学別に仔細に分析されるのが通常となっている。日本においても大学や学部によって経済的・社会的リターンに差があるであろうことは容易に想像できる。

つまり「一律無償化」ではなく、大学や学部によって何らかの評価軸を設けて「無償化」の度合いに差をつける方が、このロジックにあっているはずである。

ヨーロッパでは“留年”が問題に

こうした意見を述べると、「ヨーロッパ諸国で高等教育は一律無償じゃないか」という反論を受けることがある。

しかし、欧州では1980年代から1990年代にかけて急速に大学進学率が上昇する過程で、大学生のドロップアウト率が上昇し(OECDによると2000年時点でオーストリア47%、フランス45%)、いわゆる“留年”も増え続けたことが社会問題となったことはあまり知られていない。

このことは、1999年のボローニャ宣言でも欧州全体の課題として認識され、2008年には「欧州高等教育質保証登録機関」が設立。教育の質が第三者機関のアセスメントを受け公表されるようになっている。

日本でも、いたずらに一律無償化すると大学で学びたいという意思を明確に持たない学生が大量に大学へ入学し、中退(が必ずしも悪いとは思わないが)や卒業できない学生が増えてしまわないか、一抹の不安を覚えるのは私だけだろうか。
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文=小林りん

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