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ビジネス

2025.04.19 14:15

会社を去った側と残った側に脈々と続く「交流」があった:企業の遺伝子 第2回

盛岡工場閉鎖後も「アルプス電気」に残った寺尾博年(現「アルプスアルパイン」開発部部長)

盛岡工場閉鎖後も「アルプス電気」に残った寺尾博年(現「アルプスアルパイン」開発部部長)

盛岡工場閉鎖以降も「アルプス電気」に残り、現在は後継の「アルプスアルパイン」(以下「アルプス」)で開発部部長を務めている寺尾博年。彼が残ることで、盛岡工場で開発された技術がアルプス社内に維持され、また、彼がハブとなって、退職・ベンチャー起業組とアルプスとの繋がりが保たれた点を見ていく。
 
秋田大学で金属を勉強していた寺尾博年は、1991年アルプス電気に入社し、希望がかなって盛岡工場に配属になり、閉鎖までの約10年間、技術開発者として働いた。

どんな10年だったかと聞くと、間髪入れずに「楽しかったですねえ。しょっちゅう会社に寝泊まりしていました」という答えが返ってきた。なぜそんなに楽しかったのか? これを理解するには、盛岡工場の特殊性と、アルプス電気の伝統(それは遺伝子となって各社員に残る)をともに説明する必要があるだろう。

「人に賭ける」社内風土があった

アルプス電気と言えば、電子部品のメーカー(コンポーネント・メーカー)というイメージを抱く人は多いだろう。実は僕もそうだった。オーディオが趣味で、アンプを組み立てたりしていた僕は、ボリュームやスイッチでアルプス電気の名前を覚えていた。

JBLというアメリカ製の高級スピーカーを分解したときにも、同社のスイッチを見つけ、「カリフォルニアサウンドと謳っているが、部品は東北だな」と苦笑したことがある。しかし、盛岡工場が生産していたのはそのような小さな電子部品ではなかった。
 
盛岡工場はプリンターを生産していた。操業開始から8年後の1984年、のちにTOLICの中心メンバーとなる片野圭二が入社するのだが、この頃には、ワープロが一般家庭にも普及しはじめ、プリンター需要は急上昇していた。アルプス電気はさまざまな企業のプリンターをOEMで生産するのみならず、自社ブランドのプリンターも世に送り出していた。

プリンターという製品は技術の複合体である。紙送り、インク、プログラミングなど、さまざまな技術が組み合わさって仕事をする。なので、アルプス電気の盛岡工場には、それぞれの部門に専門家がいた。

たとえば、工場閉鎖後に起業第1号となった「アイエスエス」の鎌田智也はプログラミングを、片野圭二はアクチュエーター(特に歯車)を、後に「イグノス」を起業する大和田功は画像処理を専門にしていた。
 
寺尾の専門は、プリンターのヘッドであった。特に、サーマルヘッドを得意としていた。サーマルヘッドは熱を加えるタイプのもので、このヘッドから発した熱でインクを溶かして印字するのが、熱転写方式の印刷技術である。

寺尾が開発していたサーマルヘッドによる熱転写方式の印刷技術は、寺尾がアルプスに残ったことによって、アルプスにプリンティング部門を存続させることにつながり、現在も売り上げの確かな部分を担っている。

さらに、同社の印刷技術が非常に高い水準にあることは、寺尾が2023年に国際画像学会から「ヨハネス・グーテンベルク賞」を贈られたことからも窺える。
 
アルプス電気には、これを研究したいと社員が申し出れば、なるべくチャレンジさせて予算をつける伝統があった。「人に賭ける」社内風土があった。

創業者である片岡勝太郎の口癖に「会社が潰れても個人が潰れてしまってはいけない」というものがあるそうだ。これは技術さえあればどこに行っても食っていけるということを示唆するもので、その後のTOLICの出現を予言しているようにも聞こえる。

ともあれ、アルプス電気の社内には、社員が技術を取得するという熱意に対してはできるだけ応え、培われた技術を社の財産にしていくという循環が生まれていた。

ならば、工場閉鎖による大量の技術者の流出は、すなわち技術の流出であり、アルプス電気にとっては非常な危機であったはずだ。しかし、いま振り返ってこれを検証すると、その危機は最小限度に食い止められたようである。

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文=榎本憲男

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