ビジネス

2025.04.19 14:15

会社を去った側と残った側に脈々と続く「交流」があった:企業の遺伝子 第2回

盛岡工場閉鎖後も「アルプス電気」に残った寺尾博年(現「アルプスアルパイン」開発部部長)

退職してもやはり先輩であった

まず、寺尾が退職を選択しなかった理由を聞いてみよう。入社以来、無我夢中で研究に没頭していた寺尾にとっては、盛岡工場閉鎖のニュースは青天の霹靂であったという。

advertisement

他の社員への取材では「いよいよ閉まるらしい」と身構えていた者が多かったが、寺尾はそうではなく、心の備えがまるでないまま工場閉鎖の報に接したようだ。

寺尾博年(左)は2023年に国際画像学会から「ヨハネス・グーテンベルク賞」を贈られた
寺尾博年(左)は2023年に国際画像学会から「ヨハネス・グーテンベルク賞」を贈られた

秋田出身だったが、もう盛岡に家を建ててもいて、まいったなあと思いつつも転勤先の福島県の小名浜工場まで通うことを決断した。
 
アルプス電気に残ったのは、手がけていたサーマルヘッドの開発がまだ道半ばで、これは何としてでもやりとげたいと思ったこと、さらに、半導体を駆使するサーマルヘッドの開発には大きな開発資金が必要で、できたてホヤホヤのベンチャーで完成させるのは難しかったということがあった。
 
アルプス電気に残った寺尾は、小名浜工場で盛岡のプリンター事業を継続する任を負うことになった。しかし、先述したように、プリンターやプリンティングは複合技術である。寺尾にはわからない技術が多々あった。そして、それを担っていた社員の多くが、退職し起業していた。

ところが、寺尾は先輩社員らにごく自然に連絡し、盛岡に出向いて、教えを乞い、時には小名浜工場まで来てもらって技術を供与・伝授してもらった。

advertisement

なぜそんなことが可能だったかというと、1つは、仕事に夢中になって自分の職場が閉まることを直前まで知らなかったという寺尾の“天然っぽい”キャラクターもあっただろうが、かつての盛岡工場では、技術の交換が日常的に行われていたことが大きかった。寺尾は「社内の先輩の多くは、同時に先生でもあった」と言う。
 
前回で少し触れた学術論文では、アルプス退職・ベンチャー起業組どうしが盛岡でスムースに連携できた理由として、アルプスという同じ企業風土(慣習・手続きを含む)を共有していた点が指摘されている。このことは同時に、アルプスと退職・起業組とを結びつける要因にもなった。

寺尾にとっては、退職してもアルプス電気の出身者はやはり先輩であった。「これは先輩に助けてもらおう」と思ったら躊躇なく連絡して会いに行ったり、来てもらったりしていたのだそうだ。相談される側も相手の状況をよくわかっているので、どのように相談に乗ってやればいいかも心得やすかったということもあっただろう。

寺尾だけではなく、ほかの工場に移った者も、退職・ベンチャー起業組にさまざまな仕事を発注した。いや、社内のネットワークが活発なアルプスは、盛岡工場勤務の経験がない者も旧盛岡工場勤務者に発注している。

現在アルプスの社長を務めている泉英男は、当時は福島県の相馬工場にいて通信系の技術を担当していたが、盛岡工場でやはり通信系の技術者だった水野節郎が立ち上げたに「ERI」に発注を行っている。

こうして〈アルプス&アルプス残留組〉と〈アルプス退職・ベンチャー起業組〉との関係は寸断されることなく、立場を変えたビジネスが発生し続けたのである。
 
そして、退職・ベンチャー起業組は、「アイカムス・ラボ」の片野圭二が旗振りのもと、医療機器産業に向かいはじめる。アイカムス・ラボは歯科麻酔用注入器のアクチュエーターを量産しはじめる。TOLIC設立の2年前、2012年のことである。

「TOLIC」は地方から世界に向けた革新を生み出す組織。写真はドイツのデュセルドルフで開催された国際医療機器展「MEDICA」のTOLIC展示ブース
「TOLIC」は地方から世界に向けた革新を生み出す組織。写真はドイツのデュセルドルフで開催された国際医療機器展「MEDICA」のTOLIC展示ブース

そして、奇しくも同年、アルプス電気もまた、ヘルスケア産業に進出を試みようとしていた。(第3回に続く)

文=榎本憲男

advertisement

ForbesBrandVoice

人気記事