【重要なお知らせ:当社を装った偽サイトにご注意ください】

国内

2025.03.11 13:15

南米ジャングルで育った日本人少年が、社長になって日本で売るもの

「もともと父は学生運動をやめて、京都でレストランを経営していたそうです。私が生まれる前ですね。そして1980年頃に熊本県の天草に土地を見つけて移住し、山を開墾して有機農法を仲間たちと始めます。農協を通さずに有機野菜を販売する、産直で起業したんです」と、吉野さんは言う。

1970年代半ばから80年代にかけて、学生運動やカウンターカルチャーの若者たちが有機農業に活動を移していった話はよく聞く。有名な例が歌手の加藤登紀子と獄中結婚した元活動家の藤本敏夫だろう。彼は藤田和芳と「大地を守る会」をつくり、それはのちに経営統合によって現在のオイシックス・ラ・大地となっている。

人気作家の有吉佐和子が朝日新聞で連載した小説『複合汚染』が大反響を呼び、大ベストセラーになったのが1979年。環境問題や自然志向は80年代に入ると市民権を得つつあった。とはいえ、マイナーだった有機野菜が一般的になるにはまだ時間がかかる。1980年にオープンしたファミリーレストラン「ジョナサン」が有機野菜をメニュー化したのが1992年。外食トップのすかいらーくグループが「有機」という言葉を使うようになり、少数派の生産者と大手資本が融合する時代の幕開けとなった。

同じく1992年、天草に移住した吉野家も転機を迎える。この年、リオ・デ・ジャネイロで国連主導による「地球サミット」が開催された。「リオ宣言」で有名な歴史的国際会議だ。この会議によって、一気に世界で認知された言葉が、「気候変動」と「生物多様性」である。吉野さんの話に戻ろう。


━━当時、父が有機農業のかたわら、NGOで農業や食の安全についての活動をしていたことから、いろんな方が天草の農場に出入りするようになっていました。ある人から、リオで国際会議があるから行ってみないかという話になったのです。

ブラジルにわたった父はリオ会議に参加していたアマゾンのインディオたちの集会に顔を出して、リーダーたちと親しくなります。そこで、「先住民の子どもたちには教育が必要だから学校づくりを手伝ってほしい」と依頼されたのです。日本に帰ってくるなり、父は隣の森にでも行くような感覚で、「明日からアマゾンに行くぞ」と、一家5人(夫婦と息子3人)で移住することになりました。私が5歳の時でした。

次ページ > 密林での不思議な体験

文=藤吉雅春(ForbesJAPAN編集長)

ForbesBrandVoice

人気記事