音楽が趣味だった伊藤はDTM(デスクトップミュージック)にハマって、サンプラー用のデジタル音源を自作。「音楽を本業にできたら」という思いから、海外の雑誌に自作音源の広告を出して輸出業を始める。それがクリプトンのルーツである。
当初は順調に売れて、海外の仲間ともつながりができた。しかし、プラザ合意で転換を余儀なくされる。
「僕がフロッピーに入れて音源を売り始めた当時は1ドル200円前後。それから100円くらいまで円高になって、損をするようになってしまった。それなら逆に海外のものを輸入して日本で売ればいい。そう発想を切り替えて音楽ソフトなどのディストリビューターを始めた。それは今も私たちの事業の柱のひとつです」
00年代前半、コンピュータで音をシミュレーションするバーチャルインストゥルメントのソフトが注目を集め始める。ただ、コンピュータでギターやドラムは演奏できても、歌声はつくれない。人の歌声をコンピュータで合成して歌わせられないか。そんな課題を抱えていたとき、着メロビジネスで付き合いのあったヤマハより音声合成技術「VOCALOID」の提案を受ける。タッグを組んで07年に生まれたのが、初音ミクをはじめとしたバーチャルシンガーたちだった。
その後、ボカロカルチャーの隆盛とともに、クリプトンも成長を遂げていく。事業が急拡大するなかで経営者として不安はなかったのか。そう問うと、伊藤は次のように反省の弁を述べた。
「事業が大きくなっても、身の丈に合わないという感覚はなかったですね。むしろやりたいことがたくさんあって、人やお金、技術の問題でできなかったことがもどかしかった。渋谷系IT企業にはなりきれませんでした」
やりたかったことは何なのか。重ねて尋ねると、「すべて創業当時の妄想」と断ったうえで、次々とアイデアを披露した。
「昔はレンタルでCDを借りてテープに落として音楽を楽しんでいました。インターネット登場後は、デバイスを一人一台持ち歩いて、そこに今でいうストリーミングをして楽しむ時代になると思いました。あと、デバイスから『バンドメンバー募集』と電波が発信されて、街ですれ違ったらピコーンと鳴ってマッチングするとかね。今なら普通にありそうですけど、90年代は妄想にすぎなかった。妄想をかたちにした人が偉いんです。当時の僕の妄想のうち実現できたアイデアは、半分ないかも」
誰かが先に実現させた妄想もあれば、途中で忘れた妄想もある。ただ、それでも数々の妄想を抱かなければ初音ミクは生まれなかった。そのことを伊藤自身はこう表現した。
「いいタイミングでヤマハで出会って、僕は運が良かったと思います。ただ、その出会いに何か見いだしたのは普段から妄想していたから。それがなければ、単に『あ、リンゴが木から落ちた』とスルーしていたでしょう」