そんななか、2001年に亡くなるまでグローバルで活躍し、CSK、セガ、ベルシステム24など今でいうユニコーンを次々つくったカリスマ実業家、大川功氏に改めて学んでみてはいかがでしょうか。大川氏はソフトウェア業で日本初の株式上場を果たしたCSK創業者として知られます。また、セガを米国企業から買収し会長・社長を務め、最後に個人資産約850億円をセガに寄付しました。
筆者は大川氏に、社長付・会長付等として1995年から1998年まで、そしてグループを退職して多少の間、米国出張への同行など自発的に無給で仕えました。大川氏からは、人の大切さと人とのつながりについて大いに学びました。
独裁しないオーナー
大川氏をワンマン経営者と言う方もいます。大川氏は強力なリーダーシップを発揮しましたが、独裁しないオーナーとも言えましょう。
一つは、「オーナーは一代限り」と明言し、世襲の意志が全くありませんでした。だからオーナー家でなくても社長になれます。さらに、グループ会社を多く抱え、社長になるチャンスは多数ありました。オーナー系でもないトップが我が子を経営陣に加えようとする実例がありますが、それとは真逆です。

CSK社内では、もちろんマネジャーには厳しいのですが、絶対君主ではありませんでした。大川氏はCSK創業以来、ずっと人材が悩みでした。当時はソフトウェアのベンチャーは異端でした。また、CSK社員が顧客企業のデータセンターに常駐しますが、現場を訪れると、かなり孤独な仕事と感じました。ですから大川氏は、CSKと社員のつながりを強めるようイベントやコミュニケーションなど、人については心を砕いていました。
なお、筆者は大川氏から怒鳴られたり詰問されたことはありません(グループ外から来た役員には叱責・罵倒されたりしましたが)。ベストを尽くしてよい仕事をすれば、愛されます(もちろん、指導や助言は受けました)。しばしばワンマンで社員から恐れられる経営者がいますが、大川氏は(どいつもこいつもとグチを言いますが)人を大切にする姿勢は一貫していました。
そして、お金には大川流の規範がありました。リスクが高い投資は大川氏個人のお金で実行し、適切なら段階を経てCSKに移行しました。なお宴会や交際費も社員へのギフトも、グループでなく大川氏個人の支払いでした。
パイオニアたちとのつながりを育む
初めて大川氏の宴席の補佐をした時は、度肝を抜かれました。日本IT界のパイオニア的な経営者がずらっと並んで、ビジネスの話はそこそこに、もっぱら一緒に楽しんでいるのです。
大川氏はつながりをつくり育むことに腐心していました。赤坂の「三浦」や「口悦」(どちらも今はありません)といった一流料亭をよく利用し、三浦では様々な方々(オールスターメンバー)を呼び、芸妓・舞妓さんはもちろん、生バンドのカラオケ、出席者による芸など、大川氏ならではの場づくりで、例えば孫正義さんが殿様カツラでおどけることもありました。大川さんが座長だからハメを外してもいいと思わせた面もあるでしょう。
つまり、普段見せない自分をさらけ出せる、人間同士のつながりの空間をつくっていたのだと思います。参加された経営者から、とてもよかったと感謝の言葉をいただいたこともあります。
こうした賑やかな面とともに、きめ細やかな心遣いや懐深い寄り添いも印象的でした。調子がいい時だけでなく困っている時に手を差し伸べる、ご本人はもちろんクルマの運転手さんにも気を配るなど、思っていてもなかなかできないことを当たり前のように実践されていました。だから人が寄ってくるのです。
もちろん筆者は大川氏の真似はできませんが、学びを自分なりに生かしています。例えば、厚労省のプロジェクトチームで座長を務めたとき、それぞれの主査をリスペクトして任せながら側面サポートし、メンバーが活躍できるよう気を配り、ちょっぴりユーモアを加えたコミュニケーションは、ユニークなリーダーシップで導いてくれたと大臣の前で評していただきました。
「人徳は得」、人徳は努力で成し得ますし、自分にとっても得とは、大川氏から筆者が勝手に学んだことです。