「サードプレイス」は「たむろして無駄話ができる逃げ場」
サードプレイスという言葉がある。アメリカの社会学者レイ・オルデンバーグが提唱した概念で、家庭や職場(子どもたちにとっての学校)とは異なる、第三の居場所を指す。『人間関係を半分降りる』ではサードプレイスを「家庭・職場・学校以外の、たむろして無駄話ができる逃げ場」としている。同書で強く言及されている「自分を肯定してくれる関係」を築くことができる、互いに話を聞き合い、頷き合い、褒め合える場所であるというわけだ。
サードプレイスは現代社会の、逃げ場のない人々にとって重要な空間である。しかし同書において鶴見氏はサードプレイスが「なくなりつつある」と書いている。いったい何故なのだろうか。
「かつては、たとえば床屋の待合室だとか銭湯の湯上がりの場所だとか、いろんなところにサードプレイスがあったんです。居酒屋なんかでも、見知らぬ客同士が会話している光景を見かけました。一人で行っても、そこで友達ができるというような。
しかしそういう場所が消えて、学校、職場、家庭という三つの領域に機能が集約されるようになってしまいました。やっぱりそうするのが効率的だし、合理的ですから。
治安の観点もありますね。夜にコンビニの前で溜まることだってサードプレイスと言えるんですけど、なんとなく嫌な感じがする。そういった人間の持つ感性がサードプレイスをなくしていったんでしょうね」
合理性の追求や治安の向上……聞き心地の良いこれらの言葉は、私たち一人ひとりの素朴な希望でもあった。しかしそれが社会からサードプレイスを排除し、「生きづらい」世の中にしてしまったというわけなのだ。
「もうひとつ世界を作るなら、やさしい世界を作らないと意味がない」
とは言え、鶴見氏によれば、「サードプレイスの冬の時代」には終わりの兆しが見えているのだという。「失業率の低さや登校率は、1970年代にピークを迎えました。それから長くサードプレイスの少ない時代が続いていたんですけど、さすがに誰も、ここまでなくなってしまうとは思っていなかったはずです。今は居場所ブームという形で、そういう空間をもう一度作ろうという機運が高まっていて、良い方向へ向かっていると思います」
これも一種、社会の解像度が上がった恩恵であるのだろう。
鶴見氏自身、『不適応者の居場所』というサードプレイスの主催者である。月に一度、季節に応じた東京都内の会場に集まって飲食を交えながら会話をする空間だ。まさに「たむろして無駄話ができる逃げ場」そのものと言える。特別な目的や活動を行うわけではないが、それでも毎回30~40名ほどが集まるという。中には県外から訪れる常連もいるようだ。
「もうひとつ世界を作るなら、やさしい世界を作らないと意味がない」
鶴見氏は『人間関係を半分降りる』でこのように書いている。『不適応者の居場所』はまさに「やさしい世界」の具体的な実践例であると言えるだろう。
東京以外の場所でも、『不適応者の居場所』に似たコミュニティを見つけることができるかもしれない。とは言え、初めて行くときには緊張して二の足を踏んでしまうのではないだろうか。そういう人に向けてのアドバイスはあるだろうか。
「私自身、初めての場所に行くのがとても苦手です。一番不安なのは、自分だけが何も話せずに、浮いてしまうんじゃないか、ということだと思うんです。でも、そういう不安ってあまり当たらないんですよね。なので思い切って行ってみることをおすすめします。
もっと言うと、雑多な集まりに行くのが良いと思います。参加者の構成もそうですし、年齢的にも。流動性が高い集まりだとより理想的です。そうすると、どんな話題になっても、ついていけないのが自分だけ、という場面が起きにくい。結果的に一人きりで浮いているという状況にはならないんです」
執筆だけでなく社会的活動も通じて、長く「生きづらい」と向き合ってきた鶴見氏。そんな彼に令和時代の日本はどのように映っているのだろうか。最後に、現代社会を生きていくためのヒントを訊いた。