しかし、決行はイスラエル官憲に見つかりそうになったことで頓挫し、鉄条網のこちら側に逃げ戻ったものの、サイードとハーレドははぐれて離れ離れになってしまう。
非暴力の解決vsテロによる抵抗
このドラマの軸にあるのは、暴力で抵抗する側のサイードとハーレドvs非暴力の解決を望む側のスーハという、パレスチナ内の対立だ。スーハは”殉教者”の娘ながら、テロを支持しない”良識ある人々”の代表と言えるだろう。「テロは相手に殺す理由を与えることになる」という彼女の正論に対して、”殉教者ビデオ”のセリフも地の会話も含め、サイードとハーレドの苛烈な反論が何度か挿入されている。
「イスラエルの望みは永遠の占領か我々の消滅だ」、「占領の続く限り僕らは抵抗する」、「君に何がわかる?(君の抵抗は)いい生活をしている人たちの余興だよ」、「平等に生きられなくても(テロでは敵と)平等に死ねる」(おそらくその死の瞬間が「パラダイス・ナウ」ということなのだろう)、「地獄で生き続けていくよりもましだ」‥‥。
同じ反イスラエルでも、海外生活が長く余裕のある暮らしをしてきたスーハと、家族に深い傷を抱え不自由で惨めな生活を強いられてきた2人とでは、導き出される結論が違うのだ。
とは言え、スーハに惹かれ始めたサイードは、車の中で彼女の意見をきっぱり否定した後、素早くキスをして車を降りる。抑圧されてきた者の怒りと1人の男としての感情に引き裂かれたこの短い場面は、観る者の胸を鋭く刺す。
世界への絶望と友情の間で
後半以降は、サイードとハーレドの中に、それぞれの揺らぎが見え始める。スーハとの会話が頭のどこかに残っていたのだろうか、ギリギリになって自らに課せられた使命を「正しいことなのか?」と呟いていたサイード。しかしハーレドとはぐれ、爆弾を装着したままあちこち彷徨う中で、悩みながらも次第に「他には道はない」という意思を固めていく。一方、「一時間後に俺たちは英雄だ」と嘯いていたハーレドは、運良くジャマールらと再度合流。裏切りの嫌疑をかけられたサイードを必死に探しながら、幼馴染を失いたくないという思いが膨らんでいく。
爆弾を装着している者の心情は、生きていく望みを失った人々、装着を解除した者の心情は、まだ生きようとしている人々を象徴しているとも言える。しかしそこにあるのは、いつどちらに転ぶかわからない紙一重の差だろう。
2度目の決行が決定された時点で、2人の間には微かだが明らかなズレが生じている。「尊厳のない人生」を強いる世界への絶望と、親友の気持ちを汲みたいという友情の間で、サイードの下した思いがけない決断。大きくクローズアップされていく、悲しみの底を突き抜けたようなサイードの、もはや何も見てはいない瞳。
彼は、自爆テロというのっぴきならない政治行動と、誰でも抱いているだろう個人の日常感情を、何とかして両立させようとしたのだ。映画を見終わって、私たちは”テロリストの素顔”というものを知らなかったことに、今更ながらに気づく。
ちなみに、パレスチナ問題を扱った秀作では、コメディドラマ『テルアビブ・オン・ファイア』(サメフ・ゾアビ監督、2018)もおすすめしたい。
脚本家見習いの青年が、パレスチナの女スパイとイスラエルの将軍の恋を描く人気テレビドラマの展開を巡って、検問所のイスラエル人所長とパレスチナ人のドラマスタッフたちとの間で板挟みになっていくというストーリー。笑いの中にパレスチナの当時の状況への批評眼が光っている。主演は『パラダイス・ナウ』のカイス・ナーシェフ。こちらでは飄々としながらも不器用でチャーミングな青年を好演、数々の賞を受賞した。
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