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2024.01.30 16:45

たった1年で閉鎖された江戸幕府の「海軍操練所」の遺構が神戸で発掘される

石積みに使われていたさまざまな石

石積みに使われていたさまざまな石

明治が始まる10年前、江戸幕府は欧米5カ国との修好通商条約で5つの港を開くことを約束する。その翌年には、横浜、長崎、函館の3つの港が開かれた。残る2港のなかで、新潟は水深が浅いので遅れたとされるが、天然の良港とされる「神戸」の開港は、条約締結から10年を経た1868年にまで遅延することになる。

というのも、横浜などの開港により各地で混乱が生じると幕府に批判が集まり、天皇に権力を返上して外国勢力を追いはらおうとする「尊王攘夷運動」が全国各地で盛り上がった。そして、人気を回復した朝廷が、京都に近い神戸を開港することに懸念を示したのだ。

こうなると幕府も神戸の開港に踏み切れなくなる。

そこで、京都の朝廷を守衛できるように、大阪湾の防衛体制を強化するための幕府の海軍拠点として開設されたのが「海軍操練所」だ。開港の4年前、1864年のことだった。

しかしこの海軍操練所には、幕府自身がわずか1年で閉鎖を決めたという不思議な歴史がある。しかも文献として古地図には書かれている操練所だが、いまでは後に建てられた「神戸海軍操練所跡碑」が神戸港の一角にあるだけで、建物はおろか築造された痕跡もまったく残されていなかった。

神戸海軍操練所跡碑

神戸海軍操練所跡碑

ところが昨年12月、古地図の操練所があったと推定される場所で、現在の地表から深さ約2メートルのところに、操練所の一部とみられる防波堤の石積みが見つかったのだ。

この場所は神戸港発祥の地ということもあり、神戸市は買い物やエンターテイメントを楽しめるよう開発事業を進めていたのだが、そのために行なっていた文化財調査でこの海軍操練所の遺構が発見されたのだった。

海事関係の先端技術の一大集積地

実は、開港前の神戸は人口が1000人ほどの寂しい村だった。京都から大宰府へと続く西国街道は通っていたが、賑わいがある宿場は神戸から南西に5キロメートルほど離れた「兵庫津」だったという。

そこにつくられた海軍操練所は、欧米から次々に押し寄せる大型軍艦の脅威に備えるために、咸臨丸で米国への航海を成功させた直後の勝海舟の提案でつくられた。ここには、海軍を指揮する士官を育成するだけでなく、艦船が係留できる港や船の建造や修理ができる造船所があったという。

今回の海軍操練所の遺構調査を担当する神戸市文化財課の学芸員である橋詰清孝は次のように語る。

神戸市文化財課の橋詰清孝

神戸市文化財課の橋詰清孝

「当時では国内最先端の航海・測量術や造船技術の粋が集まった一大拠点でした。神戸を早く開港したい欧米からの圧力のなかで、朝廷の信頼を得るとともに、開港に備えて港の近代化を図るために、幕府の威信をかけた最高レベルの拠点にしたのだと思います」

古地図を見ると、海軍操練所の広さは東西約250メートル、南北約200メートルの広さがある。阪神甲子園球場よりもひと回り大きい。

航海術と軍事の第一人者である勝海舟が指南役で、先端テクノロジーが集まっている。いまでたとえるなら、米国のシリコンバレーや中国の深圳のような場所だったのだろう。

こうなると変革の風が吹くので、時代を変えようとする人材が集まってくるわけだ。坂本龍馬やその右腕として活躍した陸奥宗光たちの倒幕派がここで学ぶようになり、そのためにわずか1年で幕府は海軍操練所を閉鎖するに至ったのだった。

積み重なる遺構=神戸港の歴史

今回の発掘調査では、海軍操練所の石積みの上に、神戸開港のときに4つ造られた波止場で一番古い「第一波止場」の遺構が発見された。

神戸港第一波止場の防波堤(右下は当時ペンキをこぼした跡とみられる)

神戸港第一波止場の防波堤(右下は当時ペンキをこぼした跡とみられる)

これらの防波堤に積まれた石からは、大急ぎで工事が行われたことがうかがえる。というのも、石のなかには、灯篭の土台らしきものや建物のレンガ壁まで混じっていたからだ。とりあえず石積みに使えそうなものなら、何でも利用したようだ。

その頃、大阪と京都の人口を合わせると江戸に匹敵していた。欧米各国はそこから近い港である神戸を一刻も早く使いたかったのだろう。一方で、幕府としては先行した他の開港場のような混乱を避けたいが、朝廷の不安も解消しなければならない。そう考えると、かなりの突貫工事を強いられたのが想像できる。

幕末の国内5つの開港場の遺構が発見されたのは今回が初めてだ。なぜなら、どの港もそのあと急速に発展していったので、過去の港の上に新しい港が次々につくられていき、場合によっては、スクラップアンドビルドされてしまい何も残っていないからだ。

ところが、今回の遺構調査では、例えば操練所の石積みを巧みに利用して、第一波止場の信号所の基礎が整備されているのが判っている。このように過去からの遺構がきれいに下から上へと積み上がったまま見つかるのはとても珍しいという。

海軍操練所の防波堤(中央の石積み)とその上につくられた信号所の土台

海軍操練所の防波堤(中央の石積み)とその上につくられた信号所の土台

こうなると、今後この遺構が保存されていくのかが気になるところだ。しかし、「今回のように開発のために行われた調査で、歴史的価値が認められて、保存されるのは1万件のうち1件程度」と前出の橋詰は話す。

実は、昨年夏、最初に発見されたのは第一波止場と信号所の遺構だった。土地の所有者は神戸市だったが、このままでは遺構は埋め戻されて、従来の開発計画が進むだろうと、橋詰は感じていたという。

だが、この遺構だけでも十分に歴史的価値があるので、彼は保存すべきだと考えた。そして、文献から波止場の下に海軍操練所が眠っているのを確信していた彼は、ある日、職場の仲間たちにこう言ったという。

「掘り当てるのではない。出そう」

この3月に定年退職を迎える彼の勘に寸分の狂いもなかった。ほどなく海軍操練所のものと思われる石積みが発見されたのだ。

12月26日に行われた記者会見で、久元喜造市長は「これを全部埋めて開発するのは適当ではない。遺構の存在を前提に土地利用を考えていく必要がある」と述べ、基本的に保存していく方針を示している。

記者会見で遺構の発見を発表する久元喜造市長

記者会見で遺構の発見を発表する久元喜造市長

またこの1月13日と14日に行われた現地見学会には、全国から約1500人の歴史ファンが集まった。

1月13、14日に行われた現地説明会

1月13、14日に行われた現地説明会

これからの発掘調査でいろいろなことが判ってくるだろう。幕末の変革を志した人たちの熱い思いが込められた海軍操練所の跡を眺めているだけで、何かしらロマンが掻き立てられるのは、私だけではないはずだ。

連載:地方発イノベーションの秘訣
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