自らがロールモデルとなり、キャリアを通じて社会にインパクトを与えた女性に贈られる賞「イニシアティブ賞」には、日産自動車の副社長を務める星野朝子が選ばれた。
日本を代表する自動車メーカーの顔として、モーターショーやレース会場を飛び回る星野。飛躍の原点は、女性ゆえにキャリアを阻まれた挫折経験にあった。
保守的なことで知られる日本の自動車業界において、日産自動車副社長の星野朝子は間違いなく女性活躍の先駆者といえる存在だ。
しかも、彼女の夫は、国内外にホテルチェーンを展開する「星野リゾート」の代表・星野佳路。夫婦それぞれが異なる業界のトップマネジメントとして活躍している点でも希有な存在といえるだろう。
星野のキャリアの出発点は、長期信用銀行。入行した1983年には、まだ男女雇用均等法は制定されていなかった。当時は、女性を戦力として採用する企業自体が少なかった。
「そのころ、銀行は男女関係なく門戸を開いていた数少ない企業のひとつでした。私は大学では計量経済を学んでいたので、経済の予測や金利予測など、数字と戯れる仕事をしたいとも思っていました」
配属されたのは国際金融部で、周囲は海外駐在を経験した男性行員ばかり。星野も当然のように海外勤務を志願する。
「ところが人事部は『大切なお嬢様をお預かりしている当行としては、女性を海外支店に軽々しく派遣できない』と。私は大学時代に留学経験もあったので、女性が海外に行くことの何が問題なのかまったくわからず、会議室のドアを開けながら『この会社を辞めなきゃ』と思った。あのドアノブの感触は今もはっきりと覚えています」
退職して米国にわたり、ノースウェスタン大学ケロッグ大学院でMBAを取得し、帰国後はシンクタンクで主任研究員を務めた。ここで書いた論文が当時の日産の経営者の目に留まり、オファーを受ける。
そのときの星野は出産して1年余りだったが、迷いはなかった。幼い子どもの面倒は、複数のベビーシッターに交代で見てもらい、乗り切った。
実績アピールは役員食堂で
入社後は市場情報室の室長として、市場・顧客の情報分析とそれらの意思決定への反映を担当。その後、新車投入前の販売台数予測も担当することに。当時、新車の販売予測は開発チームが担当していたが、星野は開発チームが青ざめるほど低い数字を提示した。「開発メンバーには連日、予測の上方修正を求められましたが、突っぱねました。やすやすと修正したら、私のクレディビリティが地に堕ちますから」
蓋を開けてみると、2004年秋デビューした6車種の販売台数は、星野ら市場情報室が打ち出した予測に驚くほど重なっていた。
「そのデータを持ち歩き、役員食堂で『見てくださいよ、こんなに当たっちゃって』とアピールして回りました(笑)。当時は市場予測に精通している社員はいなかったので、ここに関しては自分が社内で一番だと言うプライドが私を支えていたのだと思います」