「AI関連の政府の文書などを読むと、『テクノロジーは道具なのでよりよく使いこなせばよい』という前提で書かれていたりします。人間の能力を重視する考え方です。しかしこうした考えだと、人間の能力を超えるようなテクノロジーへの対応が困難になります。逆に狂信的なテクノロジー観を持つ人たちは、テクノロジーが人や社会のありようを決定すると考えます。シンギュラリアンやディストピア論者などの技術決定論者がそれです。
技術哲学者はこの道具主義者と技術決定論者の両方のオピニオンを疑い、テクノロジーと人が相互に影響することで、人間や社会の在り方を変容させると考えます。また、ポスト現象学の技術哲学者は、人間の知覚や行為をテクノロジーが媒介することで、人間にとっての世界のあり方が変容していると考えます。現代の技術哲学のこれらの点は素晴らしいのですが、テクノロジーと人間を分けて分析するという前提は維持しているため、限界が生じるのです」
人間とテクノロジーはありとあらゆる側面で不可分な面があるので、互いの影響関係を分析することは往往にして困難だ。BMI(ブレイン・マシン・インタフェース)や環境知能といった、身体や環境にテクノロジーが埋め込まれたような状態では特に、テクノロジーが起こした問題なのか、人間が起こした問題なのかを明確に区分することができないからだ。
そうした状況に対して、七沢氏と共同研究者の大家慎也氏は「サイボーグ・メディテーション宣言」というタイトルの発表を行った。これは哲学者アンディ・クラークの「人は生まれながらにサイボーグ」という考えをベースに考察を深めた発表だ。
「サイボーグ・メディテーションとは、人は生まれながらに道具やテクノロジーを身体化したり背景に持つことで、初めて生きながらえることができるサイボーグ的存在であることに、内的にも気がついていくべきで、その上でテクノロジーを使いこなすべきだという考え方です」
同発表の中では、パソコンやスマホに触れながら意識を観察していくというメディテーションが実施され、テクノロジーと人間の意識や感覚がどのように同期しているのかを参加者は確認した。
終了後、実施者からは「今までテクノロジーはあくまで自分が使う対象であって、自分の意識や感覚とは別物だと考えていたが、確かにそれらの境界は曖昧であり、テクノロジーが身体化している感覚を得られた」という声が寄せられた。