ジャズピアニストとして、ニューヨークで暮らすということ
ニューヨークの人口はいつも一定だ。そんな言葉がある。夢をもって街に来る人と、叶わず去っていく人の割合が常に同じだからだ。根拠もなく、この街なら何かができてしまいそう。そう感じさせる街の“魔法”にあてられた人は、少なからずいるだろう。
大江もその一人だった。少なくとも、90年代に「ニューヨークに住んで日本と行ったり来たりしてた」ときは。それを「今思うと“ファッション”ですよ」と自虐的に笑えるようになったのは、米国暮らしが15年になり、それなりのジャズをやる自分の米国での立ち位置が明確に見えてきたからだろう。
当然だが、異国では日常生活から仕事まですべて勝手が違う。学費と生活費で目減りしていく貯金に神経をすり減らしながら、壊れたシャワーや暖房器具と格闘しつつ、大家と家賃の交渉をし、進む老眼で譜面と向き合い、盲腸の手術を受ける─。しかも、それは身の回りの話だ。家を出れば、ことはもっと賑やかになる。
大江は、ニューヨークという街について自著『ブルックリンでジャズを耕す 52歳から始めるひとりビジネス』(KADOKAWA)の中でこう書いている。「自分にパワーがないと思い切り疲れるけれど、目的がはっきりしていると、毎日が今まで見たこともないハプニングの連続となる」。
それが、コロナ禍に入って暮らしは過酷さを増した。非常事態宣言が発令され、店の棚からは商品が消え、デリバリーが当たり前の生活に。病院には遺体を安置する冷凍庫が横付けされていたことも。パンデミック前と比較して治安に不安を覚えることも増えた。
大江も「サバイバル・モード」に入ったという。それは、ブロッコリーやキャベツを茎まで小分けしてラッピングして冷蔵庫に収納するという些細なことから、人種差別による嫌がらせに立ち向かうことまで色々だ。
海外で暮らすというのは、そういうことでもある。