夢と、等身大の成長を支える危機感
若かりし頃の夢を追いかけ、実現した─。そう言うと聞こえはいいが、こうした話の多くがそう単純ではないのと同じように、大江の場合ももう少し複雑だ。
大江には、忘れられない光景がある。1991年、あるコンサート会場でのことだ。幕が開くと、「アッ」と思っている自分がいた。会場の2階席に、それまでのライブにはなかった空き席が見えたのである。
折しも前年には発売された通算9枚目のアルバム『APOLLO』がオリコンランキングで1位に輝き、人気絶頂のときだった。それまで大江は、着実に膨れ上がっていく会場のオーディエンスの波を体感できていた。それが、最終的には50万枚以上の売り上げを記録する「格好悪いふられ方」が発売された同年夏頃には、ライブへの来場者数が少しずつ減っているのをステージ立つ自分の目から確認できた。
「これはもしやヤバいな」
恋愛やプライベートなど二の次にして、まずは曲作りにすべてのエネルギーを注ぎ込み、ライブにも100%の力で打ち込んできた。なのに、目の当たりにした現実。大江は内心たじろぎながら、ステージに立っていた。
当時、31歳。この時、大江にとっての“人生の第二章”が始まっていた。
この焦りを経験するのは初めてではない。デビューのときもそうだった。
1983年5月に23歳でデビューを果たしたものの、「決して早くはなかった」と彼は話す。その焦り具合は相当のものだった。中学生の頃から音楽コンテストに参加していた大江が16歳のとき、18歳でデビューした原田真二を見て「もうこの路線でのデビューは厳しい」と頭を抱え、作家を目指そうかと思ったほどだ。
結果として、作家デビューも果たした。音楽活動のかたわら、エッセイや小説を発表し、テレビドラマや映画にも多数出演。番組司会までこなすマルチタレントぶりを発揮している。
仕事は順調だった。だが、ポップミュージシャンとしての悩みは深まっていた。「大江千里」の特徴は、人生で誰もが経験する恋愛や日常の悩みを、身近に見えて、じつはどこにもないやり方ですくい上げる作詞・作曲方法だ。ところが、時代の空気感、そして人生経験を重ねた自身の価値観との間でずれが生じ始めていた。それに伴う、売り上げやオリコンの順位といったリアルな結果。大江は、自分が求めているものと、世に求められているものに乖離を感じるようになったと語る。
「次第に、自分の中で落としどころを見つけないと次に進めない、ということが起こり始めていました」
マスメディアよりも、目の前の観客の微妙な変化のほうがはるかに「怖かった」という。それは、いちばん近くにいるマネジャーやスタッフにもわからない感覚的なもの。新幹線で移動するときも、内心では「グリーン車に乗っている場合じゃないのではないか」と葛藤しながら、公演先に向かう。そうしたさまざまな気持ちが積もり、飽和点に達したとき、ふとジャズスクールのページを開いたのだ。大江は、持ち物すべてを周りに託し、出会ったばかりの1歳の愛犬ピースと共にニューヨークへ発った。