アンソニーの世界を観客に共有
種明かしをしてしまえば本作は、認知症を患っているアンソニー自身の世界をそのまま映像化したものだ。認知症の症状において特徴的なのは、もの忘れや思い違いなどの記憶障害、自分のいる場所や時間がわからなくなる見当識障害、物盗られ妄想、暴言、徘徊などだが、それらが当事者アンソニーの視点から描かれているのだ。
従って、画面には現在と過去の出来事が同時に存在していたり、そこにいないはずの人物が出てきたり、同じ場面が繰り返されたりする。登場人物の顔かたち/台詞/振る舞いの関係も、一貫していない。Aという人物の顔でBの振る舞いをし、言っていることはCというケースもある。
「劇」という形式を考えた場合、俳優はたまたまAの役をするのであって本当はBでもCでも構わない、身振りも台詞も交換可能だという考え方は、現代演劇ではあるかもしれない。しかしそれが現実に起こってしまうと、自分の知っているこの世界が瓦解したかのように感じるだろう。
これは、夢の中で起こることと似ているとも言える。夢ではそこに存在するはずのない人がいたり、決して言うはずのない言葉を口にしたり、現在と過去が混じり合ったりしている。
たとえば冒頭近く、フラットの室内に突然現れたポールと名乗る男の顔は、実は最後に登場する施設の介護士と同じなのだが、その服装と言動は途中で現れるアンの夫ポール(ルーファス・シーウェル)のものである。
また、買い物から帰ってきた見知らぬ女は、顔かたちはやはり、アンソニーが入居した施設の介護士と同じである。彼女がこの時口にした「ジェームズ」という名が誰のものか最後まで明らかにはされないが、アンの妹ルーシーの元夫の名かもしれない。
つまりアンソニーは冒頭のアンとの会話の後、施設に移されたのに、まだ自分のフラットにいると思い込んでいる。介護士の顔や言葉が認識できず、そこに娘たちや彼女らの元夫の言動として記憶しているものを当てはめている、ということになる。
しかし、それらのシーンがすべて、アンソニーの錯誤をそのまま描いたものであると観客が理解できるのは終盤だ。よってこの映画体験そのものが、認知症のアンソニーの視線に同化し、そのことで、彼の中に生じた不安と恐怖と緊張を見ている者も共有する仕組みになっているのだ。