映画

2023.06.17

認知症によって失われゆく「父」の世界丨映画「ファーザー」

映画「ファーザー」より イラスト=大野左紀子

歳を取って体のあちこちに不具合が出てくるように、脳の機能も若い頃に比べて衰えてくるのは否めない。特定の固有名詞が出てこないなどの症状で、それを感知する人も多いだろう。その中でも、皆が恐れているのが認知症だ。

私事だが、筆者の父も晩年は脳梗塞がきっかけで認知症を発症した。最初は時間の感覚が怪しくなり、母と私を間違え、やがてほとんどの記憶と言葉を失っていった。

子である自分からしてみると、それは父がだんだんと知らない人になっていくような感覚だった。父の中では何が起こっていたのだろう?と思うが、もう知る由もない。

まるで不条理劇?

今回取り上げる『ファーザー』(フローリアン・ゼレール監督)は、認知症の老人の世界を描いた2021年の話題作である。主役のアンソニーは、演じたアンソニー・ホプキンスに当てて書かれた役柄だっただけに、恐ろしいほどのリアリティを獲得して高い評価を得た。

アンソニーはロンドンのフラットに住まう81歳。オペラのCDを聴いているところに訪ねてきたのは、娘アン(オリヴィア・コールマン)。彼女との会話から、アンソニーが訪問介護ヘルパーへの暴言で度々悶着を起こしてきたことがわかる。

恋人のいるパリに移住するので、もう今までのようには来られないと苦渋の表情で伝えるアンの言葉を受け、アンソニーは強い不安に囚われる。

アンソニー 役を演じたアンソニー・ホプキンス(2022)/ Getty Images

場面は変わり、アンソニーは一人でキッチンにいる。しっかりしていそうに見える一連の仕草の中に、どことなく不安定要素が見え隠れする。

次いで、一人暮らしだと思われた室内に、突然見知らぬ男がくつろいでいる。驚いて誰何(すいか)するアンソニーに男はポールと名乗り、自分はアンともう10年も夫婦だと答える。ではさっきのアンの話は何だったのか。激昂して一人で喋り続けるアンソニーに向かって男は、「あなたはうちに来たんです」と告げる。

そうこうしているうちにアンが買い物から帰ってくる。しかしその女はまったくの別人だ。狼狽えるアンソニーに女は「ジェームズと離婚して5年よ。覚えてるでしょ」と言う。

アンソニーは大混乱に陥る。見ている私たちにも「今の人、誰?」となる場面が度々訪れ、設定がまったく掴めない。アンソニーは一人暮らしなのか、娘夫婦と住んでいるのか。

なぜ娘の夫の顔がわからないのか。アンの夫はポールなのかジェームズなのか。そもそも、恋人と暮らすと言うアンに夫はいなかったのではないか。そしてアンが二人いるとはどういうことなのか....。

まるで不条理劇を見せられているようだ。もしミステリーだとしたらあまりにも謎が多すぎる。そんな中で、不穏なムードだけがどんどん高まっていく。
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文=大野左紀子

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