米国の大学入試と日本の大学入試、どうしてここまで違う?
2023年、戦後78年を数えようとしており、先進国の1つに数えられる我が国、少なくとも筆者は大好きで、米国に住みながらも誇りを感じている我が国の入試制度はどうだろう? 冒頭でも触れた大学入試共通テストについて、思考力や表現力を重視し始めている、などとするむきもあるものの、未だに「記憶力」を中心とした制度といわざるを得ないのではないだろうか。聞いた話でしかないので断定は避けたいが、こういった入試制度の根幹は戦前から変わっていないそうである。これでは、世界大学ランキングの平均値が上がるわけがない。
どうしてこうも違うのか?私見の域をでないが、いくつかの項目にまとめてみた。
1.「学生のための学校」、「教職員のための学校」
端的に言うなら、前者がアメリカで、後者が日本である。アメリカに来て、スポーツエンターテイメント業界で働き出し、日本のスポーツ界に警笛を鳴らすべくこちらの情報を発信し始めた頃、筆者も「やかましく吠えるだけではなく、アカデミックバックグラウンドを持とう!」と思い立ってUniversity of San Franciscoという学校を受験し、Sport Business Managementのマスター(修士)を取得した。
筆者が2年間教えを請うた15人の先生のうち、フルタイムでその学校で働いていたのは一人だけだった。授業をしてくれたのは、後は全員、コース名である「Sport Business」のプロ、つまり現役でスポーツエンターテイメント現場で働いている業界トップの猛者たちだった。
もちろん業界特性もあるのかもしれないが、「卒業と同時にその業界で働けるような人材を育てる」ことをゴールとしたプログラムであることが明らかであった。通い始めて数カ月、知らない電話番号から、「担当教授のAさんより、あなたの英語でのライティングサポートの依頼が来ている」という連絡があった。アカデミックサポートという専門部署からだった。
このような例をはじめとして、2年間通ってわかったことは、「大学は常に学生のために存在している」ということである。
日本のそれはどうだろう?果たして、学生を社会へ送り出すための存在であるのだろうか? 教授達自身が評価される基準の中心が「論文」であることをみても、答えは明白である。
2.「受け入れる側」企業の問題
私の勝手な定義ではあることを承知でいえば、大学の存在は、一部の研究職や専門職を育てる場合を除けば「社会人予備校」であるべきだと思う。「卒業時には社会人として働く用意ができている学校」という意味だ。間違いに寛容である国と、間違いを恐れるし許さない国を同じテーブルに並べるのはフェアではないかもしれないが、日本の大学生が卒業直後に「即戦力」になることは少ないだろう。
また、卒業生を受け入れる側の問題もある。大部分の日本企業には、今の時代には似合わない「新卒学生を育てることの美学」がまだある。新卒社員を「その会社色」に染めることが必要とされる時代では、すでにないと考えられるにも関わらずだ。社会からの要求度合いが低いから、大学も変わる必要がないという言い方が妥当かもしれない。