深刻な干ばつが西ローマ帝国滅亡につながる「蛮族の侵略」に引き金に

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これまでフン族は「黄金への際限なき渇望」に駆られた凶暴な蛮族とみなされてきた。しかしこの研究が指摘するように、これらの出来事を記録した史料は主にローマ人のエリートによって書かれ、記述した民族や出来事について彼らはほとんど直に体験していなかった。

「史料によると、ローマ帝国とフン族の外交は極めて複雑だった」とハーケンベックは話した。「当初は互恵的な取り決めで、これによりフン族のエリートは膨大な量の黄金を手に入れることができた。この協力体制は440年代に崩壊し、フン族はローマの土地を定期的に襲うようになり、ますます黄金を要求した」という。

現在の出来事の年代測定が正しければ447年、451年、452年の最も破壊的なフン族の侵略は、カルパチア盆地の夏が極めて乾燥した年と一致すると研究は指摘している。

ハーケンベックは「気候による経済的な混乱を受けて、アッティラや他の高職の者は戦争集団を維持し、エリート間の忠誠心を保つためにローマ帝国の地方から黄金を奪うことを必要としたのかもしれない。元々馬に乗って遊牧していた者たちは略奪者になったようだ」と述べた。

この研究は、フン族が422年、442年、447年にトラキア地方とイリュリクム地方を攻撃した理由の1つは黄金ではなく、食料と家畜を得るためだったと示唆しているが、これを確認するには具体的な証拠が必要であることを認めている。著者らはまた、アッティラがドナウ川沿いの「移動に5日間かかる」ほどの土地を要求したのは、そうした土地が干ばつときに良い放牧地を提供できたからだとも指摘している。

「この歴史上の例は、人々が気候ストレスに対して複雑かつ予測不可能な方法で対応し、短期的な解決策が長期的には否定的な結果をもたらすことを示している」とハーケンベックは結論づけている。

中央ヨーロッパにフン族が現れてからわずか数十年後の450年代までにフン族は姿を消した。アッティラ自身は453年に死んだ。度重なる侵略は政治的危機と弱い支配者の時代を経て、ローマ帝国の中央政府をさらに弱体化させた。476年、ゲルマン人の蛮族王オドアセルがイタリアで西ローマ帝国の最後の皇帝を退位させた。東ローマ帝国(ビザンチン帝国)はその後数世紀にわたって存続したが、完全に復活することはなかった。

この研究は、学術誌『Journal of Roman Archaeology』に「4~5世紀のヨーロッパ中央・東部へのフン族の侵入における干ばつの役割」というタイトルで掲載された。

forbes.com 原文

翻訳=溝口慈子

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