創始者としての業績に鑑みれば、早稲田大学は「大隈大学」と呼ばれても不思議はないし、「福澤大学」もどこにも存在しない。しかし、パリ大学は13世紀に神学部をつくった神学者ロベール・ド・ソルボンの名前に由来する「ソルボンヌ大学」としても知られている。
このようにフランスと日本、人名か地名のどちらが命名の基となるかという例は多数見受けられる。
人名とは個の単位であるのに対して、地名にはそこに存在する人間の集団がある。この違いは個人か集団か、どちらにアクセントを置くかという社会的価値の違いであるのかもしれない。それがフランスと日本で命名という形で現れてきているのだろう。
母をミチコと呼んだフランスの友人
日本とフランスの文化の違いは、名前の呼び方にも現れる。
30年ほど前に、フランス人の友人が九州まで旅をすると言ってきた。私は福岡の実家の連絡先を教えてあげた。福岡に寄ったら連絡すると言って彼は日本へ出発した。
数カ月後、実家に連絡すると、母親が「お前の友だちが来たよ。彼はおもしろいね」と言っていた。どうしたのか聞いてみると、初対面の時に「私はクロードと申します。あなたのお名前は?」と聞いてきたそうである。母は「私はミチコと申します」と答えたそうだ。
すると、彼は滞在中、何かあるごとに「ミチコさん、ちょっと、すいません」「ミチコさんこれは何ですか?」「ミチコさん、ありがとう」と母をファーストネームで呼んだのだそうだ。慣れない母はびっくりしたとのこと。「舅から呼ばれているような気さえした」そうである。友人は母国の言語習慣をそのまま日本でも会話に応用したのだろう。
海外では友人の両親など、年上の相手をファースネームで呼ぶこともめずらしくない。「ムッシュー」や「マダム」などの敬称も使えるが、親しい友人やその家族をファーストネームだけでも呼ぶことができる。
同じ場面で、日本語ではどう呼ぶだろうか。幼なじみの友人の両親だったら「おじさん」「おばさん」と呼ぶかもしれない。ファーストネームで呼ぶことはないだろう。私の知り合いのフランス人家庭では「パパ」や「ママ」などは一切使われず、実の親子でもファーストネームのみが使用されている。
言葉が実際の会話で「どう」使われるか、また「なぜ」そうなのかを問うと、その答えとして必ず固有の文化が浮かび上がってくる。それは、言葉を使用する背後には人間関係の本質が潜んでいるからである。
パリまで「新しき背広をきて、きままなる旅に」出かけるのもいい。ただ、フランスでは相手を個人として認識して会話をするべきである。人名よりも地名に重きを置いて命名する日本のように、集団をバックにして安堵するのではない。また空気も読まなくていい。個人としての意見、正々堂々と冷静に「私」としての表現をする習慣を身につけるべきである。2024年のパリ五輪とその後の時代に向けても。