自閉症当事者が語る「共に生きる道」

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自閉スペクトラム症(ASD)の人々の受け入れ態勢が整っていない社会では、彼らが適切な教育を受けて社会に進出するにはたくさんのハードルがある。そんななか、教育学の博士号を取得し、自閉症当事者として、認知を広める活動をしている人物がいる。

南アフリカ共和国をベースに、ASDの人々が抱える問題を解決する必要性をWHOなどの世界的機関を通して訴えているエミール・ガウスだ。彼はこれまでどのような体験をし、どのようにASDのハードルを乗り越えてきたのか。


──エミールさんは、幼少期、どんな困難に直面されていたのか?

僕は幼少期、話すことができず、学校では生徒たちとコミュニケーションができませんでした。その原因がなんなのかもすぐにはわからず、大学の心理学者からASDと診断を受けたのは3歳11カ月の時でした。

視覚と聴覚の点でも問題を抱えていました。アイコンタクトができず、人の顔の上半分を見ることができなかっのです。そのため、見ず知らずの人が大勢いて、たくさんの音が聞こえてくる場所ではメルトダウン(突発性かんしゃく)が起きました。メルトダウンに襲われると、手がヒラヒラと動きました。また、ユーモアや皮肉も読み取れませんでした。

話すことができなかった僕はジェスチャーで自己表現をしていたのですが、それがおかしかったのでしょう、学校では絶えず差別を受けました。感情的なイジメだけにとどまらず、腕を折られるという肉体的差別を受けたこともあります。僕だけでなく、家族も差別に晒されました。

──ASDの困難を克服するためにどのようなことをしてきたのでしょうか?

口内の筋肉トーンが低いことがわかり、作業療法士から筋肉を発達させるセラピーを受けました。また、治療を目的としたハイスクールに入り、少人数のクラスでステップ・バイ・ステップで、話すスキルを繰り返し学びました。それはレジリエンスのいる大変な道のりでした。

そてようやく、15歳になって初めて話すことができるようになったのです。それは僕にとってブレークスルーポイントでした。15歳から18歳にかけて、僕の話す能力は発達し、大学にも行けると自信がもてるようになりました。

しかし、何より母の支えがあったことが大きかった。母は仕事を辞めて僕に注力してくれました。母の導きなしには博士号を達成できたいまの僕はいません。だから、母が僕をサポートすると決意したときもブレークスルーポイントなのだと思います。母は、2020年に新型コロナに感染し旅立ちましたが、ASDの学生たちには、僕は母の助けでASDの困難を克服できた好例であると伝えています。
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文=飯塚真紀子

この記事は 「Forbes JAPAN No.099 2022年11月号(2022/9/24発売)」に掲載されています。 定期購読はこちら >>

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