この世界に向けて発信した会見の模様を、現地で取材していた香港人ジャーナリストがいた。ロシアによる侵攻開始前の2月18日からウクライナに入り、以後、継続して戦地での取材を続け、現在まで7カ月以上も戦況を目撃し、報じてきたクレ・カオル氏だ。
カオル氏は、広東語、英語に加えて日本語にも堪能であり、日本のテレビなどでもウクライナの状勢を伝えている。自らの足で戦場を歩き、現地取材を重ねてきたカオル氏に、ヘルソンでのゼレンスキー大統領の会見の模様とロシア軍の占領下にあった街の様子を聞いた。
──ゼレンスキー大統領が訪れたヘルソンの街の様子はどうでしたか?
ヘルソン市内は侵攻直後にロシア軍に占領されたためなのでしょうか、他の地域と比べると、あまり街は破壊されていませんでした。
それでも、ロシア軍は撤退前に電気や水道、ネットなどの市民のインフラを破壊していきました。現在は、ガスだけが通じる状況です。いまは街の中心部などに発電機が設置されていて、スマホなどを充電するチャージステーションには市民が列をつくっています。
街の人々はウクライナ軍による解放を本当に心待ちにしていたようで、彼らは歓迎されています。
市内には、現在、市民から多くの花が手向けられている公園があります。そこでは、4月、ロシア軍に抵抗したヘルソンの自警団のメンバーが17人も銃殺されたそうです。ウクライナ当局は、その場を証拠保全していました。ロシア軍による虐殺などの全貌が明らかになるのはこれからでしょう。
ロシア軍と対峙しているウクライナ軍の塹壕。取材には兵士と同じ防弾ベストとヘルメットは必須だ
ロシア軍の撤退とともにドニエプル川を渡っていったヘルソンの住民もいたそうです。もともと8割がウクライナ支持、2割が親露派と言われている地域でしたが、その人たちが親露派なのか、ロシア兵に追い立てられていったのか、わかりませんが。
占領中ロシア軍に対して疑心暗鬼
──占領中の市民生活はどんな感じだったのでしょうか?
実は、ヘルソン市内は占領中も食料品には困っていなかったと。農業が盛んな地域で、市場には周辺から普通に新鮮な野菜や肉などが入ってきていたそうです。
ただ、缶詰やスナック菓子などの加工食品などは、ロシア製になっていたとか。
占領中のヘルソンでは、通貨はロシアのルーブルとウクライナのフリヴニャが同時に流通していたそうで、スーパーなどの価格表示も2つ書かれていたそうです。
でも、ひどいのは、そのレートです。国際的には1フリヴニャは4ルーブルほどなのですが、ヘルソンでは占領当初から1フリヴニャが2ルーブルとされていました。しかもそのレートはどんどん変わっていき、撤退前には1フリヴニャが1・25ルーブルまでなったといいます。
また、ブラックマーケットも存在していて、いまだ占領下にある東部の工業都市ドネツクなどで集められたフリヴニャの紙幣が束で取引されることもあったそうです。
──ロシア軍とヘルソン市民は同じ場所で、どんな生活を送っていたのでしょうか?
表向きヘルソン市民はロシア軍に抵抗はしていなかったようです。占領中、銃を持ったロシア兵は街中をよくパトロールしていたといいます。
ヘルソンで卓球場を経営している人から聞いた話ですが、占領中に地元の卓球大会をやっていたそうです。そこに銃を持ったロシア軍の兵士たちがやってきて、いきなり銃を向けてきた。経営者の男性が動じず「お前は卓球ができるのか?」と聞くと、「もちろんできる」と答え、その場でロシアの将校が試合に参加していたそうです。ちょっと面白い話ですよね。
ロシアに協力する市民もいたようです。そのため解放後は、ウクライナ軍による「親露派狩り」があると言われていましたが、まだ具体的な事例は確認していません。
前線で負傷して後送された兵士。「回復したら、また前線に行く」と笑顔で話をした