NBAは四大スポーツの中で、初めて北米大陸以外で公式戦を開催。1990年11月2日に東京体育館で行われたフェニックス・サンズ対ユタ・ジャズのリーグ開幕戦だった。
これが日本でのNBA人気に火を付けた。
以降、92年、94年、96年と隔年、しかも東京ドームでの開催がルーティンとなり、アメリカでの公式戦もNHKで生中継されるようになった。この時代、NBA史上最大のスーパースター、マイケル・ジョーダン率いるシカゴ・ブルズが2度の3連覇を果たした影響も大きかっただろう。
ことし、NBAが日本に帰ってきた。先日、3年ぶりにさいたまスーパーアリーナで開かれた「NBA Japan Games 2022」は、日本のファンたちの熱気に包まれた。八村塁の凱旋試合もあり、日本での注目度も高まり、90年代を彷彿させた。NBAの日本戦略はいかに変遷してきたのだろうか。本試合までの道のりを振り返り、今後の展開の可能性を探りたい。
バスケのグローバル化 90年以降の日本市場は
92年のバルセロナ五輪から五輪へのプロ選手参加が容認されると、NBAはジョーダンを始め、ラリー・バード、マジック・ジョンソン、チャールズ・バークレー、パトリック・ユーイングなどのスター軍団「ドリームチーム」を送り込み、世界の代表チームに圧勝。金メダルを獲得した。これがバスケットボールのグローバル化を決定付けた。
バスケはグローバル・スポーツへと進化した。2000年まで米国外出身のNBA選手は40人あまりしかいなかったものの、現在は120人あまり。30チームのNBAで各チームとも2人ずつ“外国人選手”を保有する計算だ。
NBA(全米プロ・バスケットボール協会)は1946年、前身BAA(Basketball Assiciuation of America)として設立、49年にNational Basketball Leagueを吸収し現在の名称に、さらにバスケに初めて3ポイント・シュートを、オールスター・ゲームにダンク・コンテストを導入したAmerican Basketball Association(ABA)を76年に吸収、現在の形となった。
そのNBAの海外戦略を90年以降、日本市場が牽引するか思えた。しかし2002年、桃明(ヤオ・ミン)がヒューストン・ロケッツから中国人選手として初めてドラフト1位指名を受けると、その世界戦略は一変。2003年を最後に日本開催は消滅し、代わって中国でNBAの試合が開催される流れとなった。
04年には日本人初のNBA選手、田臥勇太がサンズからデビューし歴史を作るものの、出場数はわずか4試合に留まり、そのシーズン限りで退団。NBAの関心を日本市場に振り戻すことができなかった。