アントニオ猪木が無人島で薦めた「魂の一冊」──編集長コラム

故・アントニオ猪木 / Getty Images


無人島で雨宿りをしながら、猪木さんが「最近読んだ本で面白いのがあったな」と、私に一冊の本を薦めた。1962年にノーベル生理学・医学賞を受賞したフランシス・クリックの『DNAに魂はあるか』(1995年、講談社)である。クリックはDNAの二重螺旋構造を発見した科学者だ。帰国後、書店に買いに走り、この科学書を読んだ。だが、途中で投げ出してしまった。なぜ猪木さんがこの本を面白いと言ったのか、そのときは理由がわからなかったからだ。

それから25年が過ぎた。病身をYouTubeで公開していた猪木さんについにその日が来た。訃報を知り、本棚の奥に眠っていた『DNAに魂はあるか』を25年ぶりに開いた。そして読み終えると、こう思えた。「なんだ、これは科学版『燃える闘魂』ではないか」と。

古来、人類が信じ続ける「魂」とは何か。70歳になったクリック博士は人間の意識や自分の意のままに行動する「自由意志」がどうやって生まれるのかに関心を抱き、「解明したい」という強い欲求のもと、研究に没頭していく。そうして知覚、神経、脳の相関関係を実験的に探求していくのだ。

博士は「驚くべき仮説を打ち立てた」と述べる。彼の仮説はこうだ。「私たちひとりひとりは、膨大な数のニューロン(脳神経細胞)の相互作用にほかならない」。つまり、人間とはニューロンの束である、と。ニューロンは興奮して電気信号をケーブルに送り込み、他のニューロンが「発火」する。この発火が「反応」だ。

ヒトは常に平均的な頻度で発火を繰り返している。犬を見て、「わ、犬だ」と識別するのは反復学習で身につけた単純な発火パターンだが、もっと多様で複合的な発火のパターンがあるという。ニューロンの相互作用は一つだけではなく、さまざまな要素の識別が結合することで、「自由意志」を生み出して行動を起こす、というのだ。

「心にスイッチが入る」という表現がある。これは自分で身につけた複合的な発火パターンではないだろうか。雨音に何も反応しない人もいれば、心にスイッチが入り、雨音を楽しむことだってできる人もいる。そんなことを本から連想していると、アントニオ猪木が死ぬまで多くの人に問い続けたあの言葉を思い出した。

「元気ですか!」

誰もが発火するスイッチをもっているんだから、心にスイッチを入れようよ! もっと発火しようよ! 燃える闘魂というのは、人間だったら当たり前にできることだよ。クリック博士の本を面白いと私に薦めた理由は、そう言いたかったからではないか。

雨音ひとつに楽しみを見出したこと、政治家になったり事業をやったり人質の解放にイラクに行ったりしたことは猪木さんにとってはすべて等しく、目の前で起きていることに無関心でいられないのだろう。どんな状況になっても意志を生み出すのは素晴らしいことだ。

猪木さんとは一度きりの出会いだった。しかし、無人島で語ってくれたコーヒー農園の木陰で雨音を楽しむ少年の姿が、いまもずっと私のなかで生き続けている。

文=藤吉雅春

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