安西:「ライフ」とカタカナで表現すればいい問題ではなく、僕たちは分断された言葉の中で生きていることで、海外との仕事では不利となっていると自覚することが重要であるはず。和製英語も英語圏では通じないと自覚していれば対応できますが、僕たちは和製英語で世界をわかっている気になっている状態と言えます。
“人権”という言葉でも、そもそもヨーロッパでは概念としてあり、それが日本で“人権”という言葉となりました。そのため、“人権”が意味する範囲は日本とヨーロッパでは異なり、日本の“人権”という言葉を“ヒューマンライツ”と訳して英語圏に出すと、認識に差が生まれてしまいます。
中道:同じ言葉でも、意味はまったく異なりますからね。
安西:まず認識に差があると知ることが大切で、過去数十年の間では世界的に互いの共通点を見つけることでうまくやっていこうという傾向がありました。ただ、最近になってそれは簡単ではないと痛感し、互いの違いを知りリスペクトし合う関係が前提にあり、共通点を見つけるのは補完のためというアプローチが重視されるようになっています。
もちろん世界的に一斉にそれができるかと言えば、難しいと言わざるを得ません。日本としては、まず認識の齟齬を自覚して自らの足を引っ張ることをやめれば、今後も可能性は広がっていくはずです。
中道:今の話はまさにその通りだと感じます。ただ、その違いを知るためにも、まずは日本から出なければならないのではないでしょうか。
安西:一方で、アメリカの大学でMBAを取得したというだけで世界を語っている現状は、問題と言えるでしょうね。
中道:なるほど。認識の差は、『新・ラグジュアリー ――文化が生み出す経済 10の講義』にも記されている“ラグジュアリー”と“ラグジュアリーブランド”の違いにも当てはまりそうです。
日本では“ラグジュアリー”という言葉ばかりが先行して、本来の言葉の意味とは異なっているのではないかと思います。
安西:実は、今回の著書は“ラグジュアリーブランド”ではなく、“ラグジュアリー”についての書籍です。
そもそも“ラグジュアリー”は、それこそラテン語起源の言葉で500年以上にわたって、様々な意味で使用されてきました。かつては宗教権力や政治権力など、他人との差別化や貴族への対抗のために使用した歴史があり、ダンヒルやエルメス、ルイ・ヴィトンがそれに当てはまります。
20世紀後半に入ると、マスマーケティングとしての使用も始まりました。しかし、21世紀になると、“ラグジュアリー”の使われ方に世間が違和感を覚え始めたことで、意味が問われ直されています。
今となっては、ヨーロッパの高級企業の幹部でさえ、“ラグジュアリー”という言葉を避け、“ハイエンド”という言葉を使用するなか、僕がなぜ“ラグジュアリー”という言葉にこだわったかと言えば、やはり何百年も使われてきた言葉だからです。新たな言葉を生み出すよりも、“ラグジュアリー”という言葉に良いイメージを抱かせる方がインパクトが大きいと思い、あえて使っていると言えます。
中道:なるほど。