『トイ・ストーリー』がすばらしいのは、バズが自分は全宇宙を救うことを宿命づけられた宇宙飛行士ではない、ということを徐々に悟っていくところだ。彼は感情のあるプラスチックの塊なのだ。それは衝撃的な実存的危機であり、それが彼に謙虚さと力を与えている。バズがあれほど魅力的なキャラクターなのは、彼が本当の自分が何であるかを認識し、誇大妄想を脱却して、小さくて偉大なタイプのヒーローになろうとするよう常に仕向けられているからだ。
『トイ・ストーリー2』で、バズは新たなひらめきを体験した。自分がおもちゃ屋の棚に何百体も複製されているのを目にした彼は、改めて自らの無意味さを思い知る。バズは自分が特別でないこと、しかし唯一無二であることを知り、良い時間は短く、ゴミ捨て場は永遠であるという『トイ・ストーリー』のどこか虚無的な世界の大きな意味を発見する。
しかし、その後の2作品においてウッディに大きなスポットライトが当てられ、バズはオチに使われるようになり大きな成長はなかった。そしてバズは、『バズ・ライトイヤー』で生まれ変わり、警察官のような出で立ちで「本物」のスペースアドベンチャーへと飛び立った結果、彼のキャラクターのアピールポイントを完全に失った。
ピクサーは、クリエイターが伝えたいことを、大胆なオリジナルストーリーで伝えることで輝かしい評判を得てきた。今もそうであることは、『ソウルフル・ワールド』と『私ときどきレッサーパンダ』が証明している。しかしディズニーには、もっとも価値の高い看板シリーズをしゃぶり尽くし、ファンお気に入りのキャラクターを抜け殻にしてしまう癖がある。
『バズ・ライトイヤー』の興行成績が示すように、あの種のアプローチには確実な限界がある。語るべき話が1つしかないキャラクターもいる。それでいいのだ。