一般人の宇宙旅行は金の無駄遣い?

ヴァージン会長のリチャード・ブランソン(Photo by Drew Angerer/Getty Images)


映画の想像する宇宙


宇宙旅行が現実のものになったため、宇宙と人類の未来を結び付ける一種の宇宙ブームが起き、60年代には「猿の惑星」「サンダーバード」「バーバレラ」「宇宙からの脱出」「惑星からの侵略」等々の宇宙SF映画が目白押しとなったが、その中でも異色だったのがこの連載でも何度か取り上げている、スタンリー・キューブリック監督の「2001年宇宙の旅」(1968)だった。


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それはそれまでの、荒唐無稽な宇宙人や怪獣が出てきたり、無数のランプが光る宇宙船操作パネルが派手に演出したりする、西部劇の舞台設定を無理やり未来に移したような映画ではなく、恐ろしいほど科学的なリアリティーを追求したものだった。

最も衝撃的だったのは、木星に向かう宇宙船ディスカバリー号の最初のシーンで、円環状空間の内側をジョギングする宇宙飛行士の映像だった。彼が丸い帯状の通路を一周する間に、その中心あたりから別の宇宙飛行士が出てきて、その通路へと階段を下ってくる。一方は空間を一周し、他方は垂直に移動して来るという、地上では考えられないようなシチュエーションで、まるでエッシャーのだまし絵を見ているようだった。帯状の通路が回転しており、その遠心力で仮想的に重力を作り出していると理解するのに一瞬間がかかった。

さらに宇宙ステーションから月に向かうシャトルでは、無重力状態でも地上のように歩けるよう、床に吸着する靴が用いられ、上下が関係ないさまざまな部屋に移動するため、円筒状の床が回転していろいろな方向にある部屋に通じる仕掛けまで披露され、宇宙がいかに地上空間と違う場所なのかに観客は驚いた。

ほとんど誰も行ったことのない宇宙という場所は、地球の重力を前提とした既成概念を打ち壊してしまう異空間で、地上に縛られた人間の活動が2次元から3次元へと変化し、時間も何を基準に計っていいのかわからない。もちろん国境も組織も人間関係もすべてをリセットして再定義しないといけない、まるでコペルニクスの地動説やコロンブスの新大陸発見のような人類の世界観を揺るがす大転換が起きていたのだ。

キューブリック監督はNASAや未来予測の専門家に入念な取材をし、徹底的に21世紀のリアルを追求したはずだが、2001年から20年以上が過ぎた現在も、宇宙ステーションはどうにかできたものの、月に基地は建設されていないし、ましてや木星まで人間を上回る人工知能を備えた宇宙船で向かえるレベルのテクノロジーは獲得していない。

映画の中にはパンナムのシャトルロケット、ヒルトンの宇宙ホテル、AT&Tのテレビ電話なども出てくるのだが、パンナムという会社はなくなり、パソコンやインターネットの出現は一切考慮されておらず、個別の予測に関しては当たっていないと皮肉を言う人もいる。

それ以外の謎のモノリスや宇宙人の存在は、監督と原作者アーサー・C・クラークの考えるこの映画の神髄であったのだが、観客の想像を大きく超えるもので、それをどう解釈するかの論文コンテストも実施されるほどだった。しかし未来予測と違って宇宙自体はすでに目の前にあり、宇宙開発は現実問題であり、そこに行くこと自体がまず大きな概念的飛躍だったので、地上の人々は映画を介してこの新世界を想像しようと必死にもがいていた。

映画の中では1992年1月12日にディスカバリー号に搭載された超人工知能HAL9000が誕生したことになっており(映画公開のほぼ四半世紀後)、実際にその日に誕生会と称して「2001年宇宙の旅フォーラム」を六本木のアークヒルズで敢行した。1990年12月2日に日本人初の一般人の宇宙飛行士となったTBS報道局次長の秋山豊寛さんにもパネリストとして出てもらって、なぜHAL9000のような人工知能が実現していないのかを論議した。
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文=服部 桂

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