『風の歌を聴け』
今回の文章はこちらになります。
名前は書いてない。
僕がこの手紙を受けとったのは昨日の3時過ぎだった。僕は局の喫茶室でコーヒーを飲みながらこれを読んで、夕方仕事が終わると港まで歩き、山の方を眺めてみたんだ。君の病室から港が見えるんなら、港から君の病室も見える筈だものね。山の方には実にたくさんの灯りが見えた。もちろんどの灯りが君の病室のものかはわからない。あるものは貧しい家の灯りだし、あるものは大きな屋敷の灯りだ。あるものはホテルのだし、学校のもあれば、会社のものある。実にいろんな人がそれぞれに生きてたんだ、と僕は思った。そんな風に感じたのは初めてだった。そう思うとね、急に涙が出てきた。(中略)僕の言いたいのはこういうことなんだ。一度しか言わないからよく聞いておいてくれよ。
僕は・君たちが・好きだ。
デビュー作『風の歌を聴け』(講談社)からの引用です。ラジオ局に手紙を送ったのはまだ十代の少女です。少女は散歩もできない重病で、このまま一生が終わるのではないかと脅えています。
Getty Images
でも、もし、港まで散歩をして海の香りを胸いっぱいに吸い込むことができたなら、「世の中が何故こんな風に成り立っているのか」わかるかもしれない、そんな気がしていて、「少しでもそれが理解できたなら、ベッドの上で一生を終えたとしても耐えられるかもしれない」と書いています。
十代にして病室に閉じ込められた少女はラジオだけが楽しみです。そして、ディスクジョッキーあてに手紙を送りました。その少女から胸に迫る手紙を受け取った時の様子が、上記の引用した部分です。いつもは軽口ばかりで「犬の漫才師」のようなDJも立ち止まり、港に出かけ、病室にむけて話しかけたのです。
総体としての部屋
さて、この場面から我々が学ぶべき真理があるとすれば、
「君の病室から港が見えるなら、港から君の病室も見える」
ことです。港は経営者。数々の部屋の明かりは従業員。部屋(従業員)から港(経営者)はよく見える。経営者がどんな優れた(もしくは誤った)判断をしているかが見える。
一方、理屈でいえば、港(経営者)から部屋(従業員)も見えるはずです。でも現実には簡単ではありません。それぞれの部屋はあくまで独立した部屋なのに、「総体としての部屋」としてしか見えなくなる。部屋が50や100ならまだしも、千、万ともなるとますます困難になります。時に、「部屋」を訪ねてノックして、お茶でもどうですか……なんて言うことがあればいいのですが、そんなこともできなくなります。この数年、毎日発表される感染者の数のように総体でしかなくなるのです。
入社後殆ど寝る間もなく会社に奉仕し、疲れ切って自殺した20代社員に対して、「採用する際に、どうして適性を見極められなかったのか」と耳を疑う経営者が出てくることになります。一人一人の社員を個人として尊重することができているのであれば、このような発言はありえないでしょう。